弔辞

 濱崎君、まさかこんなに早くお別れの言葉を述べる日が来るとは思ってもみませんでした。日記を見ると、ちょうと一年前に最初の知らせを受けています。長く医者をやってきた君らしく、膵臓癌のステージⅣbだとあっさり明かしてくれました。肝臓と肺に転移があり、主治医からは治療して二年、何もしなければ半年と言われたということでした。
 さっそくグーグルで「膵臓癌」を検索すると、日本膵臓学会の過去20年間の治療成績による生存率が出ていました。なるほどステージⅣbの五年後の生存率は3%となっています。君の主治医はこれをそのまま「告知」したのだなと思いました。同時に、ぼくは大きな疑問を感じました。日本膵臓学会が唱導するスタンダードな治療を受けると、ステージⅣbの患者の97%は五年以内に確実に死ぬ。こんな治療を受ける意味があるだろうか。むしろ、この確実に死に向かう治療から逃げ出すべきではないのか。そんなことを夏の盛り、まだ元気だった君に、ぼくは身の程知らずにも提案したものでした。
 すでにひと月ほど、週一回のペースで抗癌剤の投与を受けていた君自身も、いまの癌治療にたいする疑問をしばしば口にしていました。一回の投与で体重が2キロも3キロも減るという話をしながら、「これでは病気との闘いじゃあなくて、薬との闘いだよ。少々苦しくても助かるならやってもいい。でも治療を受けたところで五年生存率は3%だ。主治医はうまくいって二年、三年は保証できないと言っている。こういう治療に意味があるんだろうか。そもそも治療と言えるのかって思うよ」と憤懣をぶちまけたことがありましたね。
 あるいは「医者が患者を見ていないとはよく言われることだ。でも本当のところ、彼らは病気さえ見ていない。病気という概念を見ているだけだ。画像診断などから病気をカテゴライズして患者に生存率を告げる。それも自分の判断ではない。過去のデータではそうなっているってことだ。自らの診断に責任をとる気は最初からない。抗癌剤を入れるたびに、看護師から頑張ってくださいと言われる。とうとう頭にきて、どう頑張れっていうんだ、どうせ死ぬんだろうって怒鳴ってしまってね。彼女たちはマクドナルドの店員と変わらないよ。ただマニュアルどおりのことを喋っているだけだ」と言っていたこともおぼえています。
 いまさらこんな話を蒸し返すのは、医者であった君が自ら末期の癌を宣告されて、ぼくたち素人よりも遥かに強く感じなければならなかった疑問や葛藤を、重く受け止めたいと思うからです。そうした疑問や葛藤と直面しながら、君は自分なりの身の処し方を一つずつ決めていったように思います。

 最初の数ヵ月が過ぎたころから、ぼくは治療の方針などについて自分の考えを言うことを控えるようになりました。君が生きている現実に、自分の言葉は届かないと思ったからです。去年の12月に会って一緒に昼ごはんを食べることにしていましたが、直前になってキャンセルの連絡が入りました。腹痛のため入院することになった、癌が浸潤しているのだろう、と君はいつものように落ち着いた調子で報告してくれました。やはり腸閉塞が起こっていたらしく、そのときはステントを入れて事無きを得ましたが、以後の半年ほどはメールのやり取りだけになりました。
 メールでは、ぼくの言葉の不行き届きや、ちょっとした欺瞞を鋭くついて、いつも激しく反論してくるので、まだそういう元気があれば当分は大丈夫だと高をくくっていました。そうしたやり取りが、ほんの二週間ほど前までつづいていました。その間に、腸閉塞を起こす間隔がしだいに短くなってきて、再開した抗癌剤も中止となり、4月の末には主治医から余命一ヵ月から二ヵ月と言われたことを、いつものように淡々と報告してくれました。
 ぼくはただ「きついね」とか「辛いね」といった言葉を返信することしかできなくなっていました。それでも君は最期まで、感謝の言葉を書き添えることを忘れませんでした。ぼくは忸怩たる思いで、メールを返信しつづけました。こんな不甲斐ない友だちに愛想を尽かさず付き合ってくれている君に、ぼくのほうこそ深く感謝していたのです。

 お別れの日が近いことを無意識に感じていたのでしょうか、この一、二週間は昔のことをよく思い出していました。大学生のときに四国のぼくの実家に遊びに来てくれて、一升炊いたごはんをきれいに食べてしまい、うちの両親をびっくりさせたこと。アメリカンフットボールをやっていた君が足を骨折して、松葉杖をついてぼくたちの前に現れたこと。そして何よりも、お互いに無類の音楽好きであったので、会うとマニアックな音楽の話になったことを懐かしく思い出します。
 そんなたくさんの思い出を残して、君は行ってしまいました。最期まで、あとに残される奥様と娘さんのことを、そのことだけを一心に考えていました。体力の許すかぎり仕事もつづけていました。そんなに頑張らずに、ゆっくり温泉にでも行って療養してくれればいいのに、と心のなかでは思っていましたが、口に出すことはできませんでした。君が君らしく生き、近づいてくる死に向かっていこうとしていることが、痛いほど伝わってきたからです。
 ぼくも五年ほど前に父を亡くしました。毎朝仕事をはじめる前に、部屋に飾っている父の写真に「今日もよろしく」などと話しかけています。いまだにいなくなった気がしないのです。いなくなりそうな気配もありません。死んでいるけれど、「いる」と感じます。日本語というのは面白い言葉で、「死んでいる」のなかに、ちゃんと「いる」が入っているのですね。死んでいるけれど「いる」という、おそらく誰もが身に覚えのあるリアルな感覚を、言葉で掬い上げているのだと思います。
 死は生とは別のリアリティだと、ぼくは思っています。生の様式において大切だったものは、死の様式においても大切です。大切でありつづけます。一度生まれたつながりは消えることがありません。そのようにして濱崎君、ぼくたちはこれからもともにありつづけるのだと思います。(2017年6月8日)