小説のために(第一話)


 「小説のために」というサイトの名称は、ウェブ・デザイナーの東裕二さんが、このホームページの試作段階でとりあえず付けてくれたもの。これからはじめようとしているサイトにぴったりだと思ったので、そのまま使わせてもらうことにした。出典はコリン・ウィルソンの本のタイトルだという。ぼくの知らない本だ。調べてみると、原題は”The Craft Of The Novel”で1975年の刊行。日本では鈴木健三訳で1977年に紀伊國屋書店から出ている。
 コリン・ウィルソン、ちょっと懐かしい名前である。ぼくが学生だった70年代には、わりとよく読まれていたのではないだろうか。とはいえぼく自身は、彼の本を一冊も読んだことがない。なんとなくオカルトや殺人のことを書くヘンな人という先入観があった。たしか佐川一政と対談したこともあったなあ。アマゾンで調べてみると、かなりたくさんの本が出ているが、現在では多くが品切れになっている。『小説のために』も中古で入手した。
 さっそく読んでみると、これがとても面白い。ぼくと似たようなことを考えているところもあり、共感しながら読み進めているところだ。この本をとっかかりにして、小説や文学について考えていることを、思いつくままに書いていくことにしよう。
コリン・ウィルソン
 1974年にアメリカの大学の創作コースで授業をしたことが、本を書くきっかけになったらしい。そこで彼は面白いことに気づく。ここにいる学生たちは、「創作の仕方は教わったけれど、創造的思考は教わらなかった」のではないか。では彼が考える「創造的思考」とはどのようなものか。自分自身に適切な質問をし、自分にとって興味のある問題を自分に課すことである。その問題を紙の上で展開していくことが、すなわち創作ということになる。
 ぼくにとって小説を書くことの意味も、コリン・ウィルソンが言っていることに近い。自分が考えたいこと、考えずにはいられないことを考える。そのための手続きが小説である。つまり小説とは、自分が考えたいことを考えるためのツールであり、考える過程そのものと言っていい。
 そんなものを人が読んで面白いのか? 難しいところだ。編集者と対立するのも、たいていそのあたりのこと。たしかに読者にとって、小説はお金を払って購う商品である。そして編集者の重要な仕事は、著者と読者の橋渡しをすることだから、彼らの言うことはよくわかる。かといって、編集者や出版社の言い分を全部聞き入れていたら、なんのために小説を書いているのかわからなくなる。いつも葛藤がある。
 まあ、それはともかく。コリン・ウィルソンは創作において自らに問うべき問いを、さらに限定してつぎのように言っている。

あらゆる作家志望者が答えるべき第一の質問は、「わたしは誰であるか?」ということよりは、「わたしはほんとうに誰になりたいのか?」ということなのである。

 たしかにね。わたしはこのような者でございます。はい、さようですか、では面白くもなんともない。きっと退屈だろうね、そんな小説を読まされても。どうせみんな代わり映えのしない「わたし」なのだから。その「わたし」がいろんなことを体験する。そのなかで、彼や彼女は自分が誰であるか、どんな人間であるのかを認識していく。う~ん、気持ちはわかるけれど、やっぱり退屈な気がする。
 個人の行ないをとおして人間のなかにうごめく悪を描く。それももういいんじゃないかな。現に悪は地球上に満ち溢れているわけし。人間はこんなにひどいことをするものです。残虐で、欲深くて、愚かで、自分勝手です。そんなことはみんな知っている。わかり過ぎるくらいわかっているから、もう考えたくないのだ。見たくないし、できれば目を逸らしていたい。暗い話はやめてテレビでも観よう。猫の相手でもしよう。
 では、人間のなかの善きものを書けばいいのか。なるほど、悪逆なことをこれみよがしに書かれるよりは、いくらかましな気がする。というか、それこそ小説が描くべきものだ、とぼくは思う。ただ、口で言うほど容易くはないだろう。誰でも体験的に知っているように、善を描くこと、しかも空々しい善ではなくて、心に染み入るような善きものを描くことは、悪を描くよりも遥かに難しいのだ。
 そう、ここが肝心なところだ。善が描かれているということは、すなわち人の感情に訴えるようなことが描かれているということである。それが善の定義と言ってもいいくらいだ。善とは何か。一人ひとりのなかに深い感情を喚起するものである。感傷ではない。感情である。喜びでも悲しみでもいい。何か深い感情とともにあるとき、人は善なる者でしかありえない。このあたりのことは追って論じていくことにしよう。それにしてもどうです? こんなふうに考えてみると、一口に善を描くといっても、こりゃ大事だってことがおわかりいただけるでしょう。
 では悪のほうはどうか。ぼくが思うに、悪は善にくらべて理性に訴える面が大きい気がする。つまり頭で理解することができる。小説を書く側からいえば、悪は情報として処理することができる。こんなひどいことがなされました。なんでもいいけれど、たとえば人が殺される。どんなやり方で殺されたのか。理由や原因は。死体の状態。被害者の苦しみや恐怖。殺人を犯す側の心理。すべて情報として伝えることができる。本来そんなことは文学とは関係がない。でもなんとなく悪が描かれていると文学らしくなる。錯覚である。錯誤です。まあ、サドからドストエフスキーに至る過去の遺制ということにしておこうか。
 これにたいしてコリン・ウィルソンは、「わたしはほんとうに誰になりたいのか?」という問いが一義的であると言っている。そのことを作家を志す者は真剣に問えと言っている。難しい問いだ。恐ろしい問いでもある。この問いとともにあるとき、ぼくたちは迂闊なことが書けなくなる。簡単に人を殺したり、女の人にひどいことをしたりするような誰かに、きみは本当になりたいのだろうか。人間の邪悪な面を描くことは、「わたしはほんとうに誰になりたいのか?」という問いと、いかなる関係を取り結ぶことになるのか。
 冒頭から手に負えないような大きな問題にぶつかってしまった。コリン・ウィルソン、やさしそうな顔をしているけれど、なかなか曲者である。もう少し彼の言うことに耳を傾けてみることにしよう。(2016.3.19)