小説のために(第三話)

 ぼくたちは自分の内在的な本質によって自分になっているわけではない。自分探しなどというのは、地中に果てしなく穴を掘りつづけるようなものだ。最初から無意味であることはわかりきっている。自分を探すのではなく、他者を探さなくてはならない。ぼくたちを見つめてくれる一匹の猫を。
 ところがヨーロッパの人々は、猫のかわりに一神教の神と出会ってしまった。これが人類規模の災厄のはじまりだ。ぼくはそう思う。ほとんど確信している。「世界ネコ歩き」だって? いまさら猫ちゃんの写真を撮ったって遅いよ。理由をこれから説明していこう。
 他者の眼差しとともに「私」はある。誰かに見つめられることによって「自分」というものが生まれる。すぐに思い浮かぶのはモーセの十戒だ。たとえば七つ目の戒めは「姦淫してはならぬ」。この有名な戒律を、マタイ伝はつぎのように読み替える。

あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(「マタイによる福音書」新共同訳)

 なるほどね。通常は戒律の内面化と解釈される。柄谷行人は「キリスト教の比類のない倒錯性」と言っている(『日本近代文学の起源』)。それはともかく。これを眼差しの問題として考えるとどうだろう。一つの眼差しが、その人の「自己」を規定する。この場合の「自己」は、ぼくたちによって見られる女性の「自己」だ。つまり色情をもって一人の女性を見るとき、彼女はそのような「私」を生きはじめることになる。彼女に注がれる眼差しが、その人を「姦淫される者」にしてしまう。
 もう一つ見てみよう。「殺してはならぬ」。これは六番目に出てくる。人を殺してはいけない。そんなこと当たり前じゃないか。全然。だってそうだろう。当たり前ではないから、世界はこのようなものになっている。
 モーセの十戒は一見無造作に並んでいるようだが、よく考えると、これらの戒律の配置は並列ではない。第一の戒律が、あとにつづく九つの戒律を睥睨するように一段上に置かれているのだ。

おまえにはわたし以外に他の神々があってはならぬ。(「出エジプト記」中沢洽樹訳)

 一神教の神が下す命令として「殺してはならぬ」や「姦淫してはならぬ」や「盗んではならぬ」がある。つまり第一の戒律と他の九つの戒律は、それぞれが直列の関係になっている。唯一神の下す命令だから、絶対に聞かなければならない。そういうロジックである。
 ヨーロッパの人たちにとって他者の目とは、すなわち神の目なのである。この神は一神教だから、当然、目は一つ(というか一対?)である。彼らは2000年近くものあいだ、神の目という、たった一つの目によって見られた「自分」を生きてきた。それがメイド・イン・ヨーロッパの「自己」である。遥か天上にある神の目、しかもたった一つきり。そういう眼差しによって生成する「自己」がどのようなものであったか。デカルトの「コギト」を見たまえ。ヘーゲルの「自己意識」を見たまえ。フロイトの「自我」を見たまえ。なんと痛々しくやせ細っていることか。灰色の修行僧みたいな「私」ではないか。豊穣さなどどこを探しても見当たらない。どう絞っても甘い汁は出てきそうにない。だからブドウを絞ってワインを作ったって?
 しかも唯一の神は死んだ。ニーチェが言わなくても誰かが言っただろう。ぼくでも言いそうだ。

神は死んだ! 神は死んだままだ! それも、おれたちが神を殺したのだ! 殺害者中の殺害者であるおれたちは、どうやって自分を慰めたらいいのだ?(『悦ばしき知識』信太正三訳)

 ニーチェの時代には、こんなことは狂気の人間にしか言えなかった。狂者の口を借りて言表するしかなかった。いまでは常識だ。悦ばしいことなのだろうか。
 まあ、とにかく神は死んだ。死んだものは埋葬しなければならない。「神だって腐る」と狂者も言っている。急がなければならない。とはいえ死んだのは神だ。丁重に扱う必要がある。せいぜい盛大な葬式を出してやろう。あとは? 狂者はつづけて言う、「おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?」と。現にそうなっている。果たして、それは悦ばしいことなのだろうか。
 悦ばしいかどうかはともかく、誰でも知っていることだ。この資本主義の世界、高度な消費社会では、ぼくたち一人ひとりが神だ。これは声を大にして言っていいことかも。誰もが自由で平等だ。余裕があれば博愛だ。腐っても民主主義だ。ついでに小声で付け加えておこう。同時に、誰もが奴隷です。
 さすがはフランス革命、人権宣言だ。その結末がシャルリー・エブド、でしょ? テロに次ぐテロ、じゃないの? 自由も平等も行き詰まっている。博愛や友愛は無期延期。ひょっとして永遠に? かもしれない。民主主義はどうか。ここでみなさんにお知らせです。1パーセントと99パーセントでも、民主主義はちゃんと機能します。いま世界は確実にそっちへ向かっている。その過程でテロが起こっている。するとテロも民主主義の一部と考えるべきではないだろうか。
 なぜ行き詰まっているのか? そりゃそうでしょう。行き詰まらないわけがない。自由と平等は、それだけなら「私利私欲の解放」だ。博愛と友愛。たしかに言葉としてはある。美しい理想として燦然と輝いている。でも任意です。誰もが自分のことで精一杯。博愛や友愛までは手がまわらない。少し余裕ができてからね。そういうときは?
 

私以外私じゃないの
当たり前だけどね
だから報われない気持ちも整理して
生きていたいの
普通でしょう?

 たしかに普通です。「ゲスの極み乙女。」に言われなくても、みなさんわかっていると思う。なぜって、たった一つの他者の目が失われてしまったからさ。ここで最初の命題に戻る。他者の眼差しとともに「私」はある。誰かに見つめられることによって「自分」というものが生まれる。その他者の眼差しが失われ、ぼくたちは自分勝手に自分になっていいことになった。自分で自分を好きなようにアレンジできる。ヤッホー!
 ところが自分で自分になろうとすると「私利私欲の解放」になってしまう。「私以外私じゃないの」で済ませちゃう。これってどうよ? 美しくない&楽しくない。どころの騒ぎじゃない。世界中、テロまみれはないか。
 モーセが悪い。彼が一神教の神などと出会ってしまったことが、そもそもの間違いなのだ。責任をとってもらおう、モーセに。その前に猫を見つけよう。ぼくたちを見つめてくれる一匹の猫を。残忍な心にもやさしい光をあててくれる、つぶらな瞳を。