小説のために(第二話)

 飼い猫の話をしよう。ぼくの家には、いま二匹の猫がいる。一匹はオスのヒースで12歳。もう一匹はメスのフクちゃんで、もうすぐ7歳になる。二匹とも病気を抱えているが、とくに今年に入ってからフクちゃんの容態がよくない。
 一年ほど前に腎不全を起こして死にかけた。ひところは良くなっているように見えたが、その後も徐々に悪化しつづけていたらしい。いまは自宅で点滴をしながら、細々と命をつないでいる。餌はほとんど食べない。無理に与えると吐いてしまう。体重は元気だったころの半分くらい。すっかり痩せてしまった。きれいだった毛も、いまはボサボサだ。
 ときどき甘えてぼくのところへ来る。そういうときは仕事を中断して抱き上げる。肉の落ちた咽喉や首、冷たい耳などを撫でてあげる。腕になかで、猫はじっとぼくを見ている。頬はこけて、目だけが大きい。黒い瞳は澄んで、そこにぼくが映っている。つぶらな瞳に映っているのは、悲しみだ。悲しみと愛おしさ。他には何もない。ぼくたちのあいだに、他のものが入り込む余地はない。
 自分を好きになることは難しいけれど、猫の目に映った自分は好きになれそうな気がする。その目に映ったぼくは、なんだか善良な人間だ。暴力の匂いがしない。テロリストになって、残虐なことをしでかしたりしそうにない。やがて猫は腕のなかのうつらうつらしはじめる。ぼくは取り残されて、ちょっと寂しい気分だ。もう一度、目を開けてくれるのはわかっているけどね。いつまでもその瞳に、ぼくを映していておくれ。

フクちゃん1

 前回も取り上げたコリン・ウィルソンは、あらゆる作家にとって「わたしはほんとうに誰になりたいのか?」という問いが一義的であると言っている。つまり創作という行為には、アイデンティティの問題がからんでくる。わたしは誰か。自分とは何者なのか。

シェイクスピアは、芸術とは自然に向けてかかげられた鏡であるといっている。しかし、その中に自分の顔を見る鏡であるといった方が もっと正確であろう。ではなぜ自分の顔を見ようとするのか? それはこの興味深い理由のため、つまり、そうするまでは、「自分が何であるか分からない」からなのである。短篇とか小説とかいうのは、はっきりした「自己像」を創り出そうとする作家の試みなのである。(『小説のために』鈴木健三訳)

 ぼくたちは自分で自分になることはできない。自分一人で自分になることはできない。他者が介在することによって、はじめて自分になる。誰かに見つめられ、その目に映った者を「自分」として生きることで、自分になっていく。
 キリスト教の信仰とは、神やイエスの目に映った者になろうとすることだろう。ぼくはキリスト者ではないから、たとえば腎不全で死にかけている猫の目に映った者になろうとする。「わたしはほんとうに誰になりたいのか?」という問いを自分に向けるなら、ぼくは猫の目に映った者になりたい。
 コリン・ウィルソンは「鏡」という比喩を使っている。すると小説を書くこと、創作という行為は、自分を映し出す鏡をつくり出す作業ということになるだろうか。この鏡はたんなる物ではない。むしろ「他者」と言ったほうがいいかもしれない。なぜなら小説を書くことは、作品という鏡に自分を映し出して、「ああ、これがおれか」と認識するようなものではないからだ。もっと動的な関係として、書くという行為はある。
 鏡というとスタティックなイメージになるから、「眼差し」と呼ぶことにしよう。他者の眼差し。この作業は、「何になりたいのか?」という問いとともにある。たとえば猫の眼差しによぎられたところに生まれる者になりたい、というのはどうだろう? 猫の目に映った者を、ぼくは「自分」として生きたい。なぜなら、その者は善良だから、邪悪さとは無縁のような気がするから。
 小説を書くことは、いわば猫の目をつくり出すことである。全面的に肯定できる「自分」を映し出す他者の眼差しをつくろうとする作業、それが創作という行為である。

 こんなふうに考えると、小説を書くという行為が、とても愛おしいものに思える。だって猫の目をつくるわけだからね。その眼差しに映った自分を生きようとすること。創作とは「こうありたい」と思う自分を生成させる行為だ。「クリエイティブ」とは、そういうことではないだろうか。
 ぼくにとって自分が書く小説は、一人の他者の眼差しだ。そこに映った自分を、ぼくは生きたいと思う。失敗や挫折、後悔なんかも含めてね。完全に重なってしまうわけではない。それが他者の他者たる所以だ。追いつこうとするけれど、けっして追いつけないもの。
 他者は成長する。小説も成長する。その眼差しによぎられたぼくも、作品とともに成長しつづける。なんて素敵なことだろう、小説を書くってことは。なんて悦ばしいことだろう。この悦ばしい行為に、言葉を使って、誰もが赴くことができる。言葉は万人に平等にひらかれている。
 優劣なんて、ありはしない。だってぼくたちがつくろうとしているのは、猫の目なんだからね。猫の目に優劣があると思うかい? どの瞳も可愛いにきまってるじゃないか。一人ひとりが、自分を見つめてくれる猫の目をつくればいいだけの話なんだよ。
 もちろん小説を書くのは一つのやり方で、他にも無数のやり方がある。本当は生きること自体が創作である、と言いたいわけなんだ。ぼくたちが生きることは、一人ひとりが自分を見つめてくれる他者の眼差しをつくり出すことだ。だから生きるってことは、誰にとってもクリエイティブな行為なんだ。
 この点さえ押さえておけば、テロリストなんかに負けるわけがないよ。ぼくはそう思う。どんな残虐なテロリストよりも、一匹の健気な猫のほうが強い。いかに強大なテロリズムも、人を生かすことはできないけれど、細い命をつないでいる猫の目は、一人の人間を生成させるんだからね。(2016.4.4)