小説のために(第十話)

 ブラインド・ウィリー・マクテルの「Statesboro Blues」を聴く。オールマン・ブラザーズ・バンドで有名な曲だけれど、同じ曲と言われても同じに聞こえない。ウィリー・マクテルの原石に磨きをかけてスリリングなロックにしてしまったオールマンがすごいよね、といったところから、今日は少し趣向を変えてブルースの話をしよう。
 1920年代から30年代にかけての古いブルースを「カントリー・ブルース」と呼ぶことがある。テキサス州やジョージア州などの田舎で生まれたということもあるし、電気化する以前のアコースティック・ギター一本で奏でられる素朴なブルース、というとらえ方もできるだろう。この時代のすぐれたブルース・マンには盲目の人が多い。すぐに思いつくだけでも、ウィリー・マクテルの他にブラインド・レモン・ジェファーソンやブラインド・ウィリー・ジョンソン、ブラインド・ブレイクといったブルースの巨人たちがいる。みんな頭に「ブラインド」が付く。
 公民権運動などまだ影も形もなかった時代、アメリカの南部で黒人である上に盲目に生まれつくことは、これ以上のハンディはないというくらいの不運である。不遇の極みにあって、しかし彼らはそれぞれに一つの世界をつくり上げた。この人たちがいなければ、ローリング・ストーンズやエリック・クラプトンやボブ・ディランの音楽は違ったものになっていただろう。
 こうした盲目のブルース・マンの存在は、いま森崎茂さんとつくろうとしている「総表現者」という概念に、たくさんのヒントを与えてくれる気がする。最新のブログのなかで森崎さんはつぎのように述べている。

 わたしたちはだれも世界を解釈するために生きているのではない。ほかのだれでもないわたしに固有の生を生きたいから表現している。当事者性に徹することはさまざまな歪みを当人にもたらす。これまでもそうであったように意識の内面化や社会化することのできない出来事は残骸のように遺棄され打ち捨てられてきた。そうやって日々も歴史もすぎていく。(「歩く浄土」182)http://guan.jp/

 森崎さんの言い方を借りれば、盲目のブルース・マンとは「さまざまな歪み」を一身に受けることによって、「当事者性に徹する」しかなかった人たちである。歴史のなかで「残骸のように遺棄され打ち捨てられ」る運命にある人たちである。しかし彼らはブルースという表現によって、自分たちの固有な生を生きた。その確かな証を、ぼくたちは彼らが残した録音に聴いている。

 ブルースというのは不思議な音楽だ。クラシック、ジャズ、ロックなどにはない独特の味わいがある。それはひとことで言うと、「ほんとうのもの」という感じである。先にあげた盲目のブルース・マンたちが奏でる音楽、あるいはロバート・ジョンソンやチャーリー・パットンやサンハウスといった黎明期のブルース・マンが残した録音から伝わってくるのは、どうしようもなく「ほんとうのもの」という感触である。音楽というよりは音、音がそのまま一人ひとりの固有な生を感じさせる。
 どうしてこんなことが起こるのかわからない。少しずつ考えてみよう。まず彼らは何かを訴え、伝えるための手段としてブルースという音楽をやっているわけではないという気がする。人種差別のなかで抑圧され、搾取されつづけてきた黒人たちの魂の叫び、といった言い回しは恥ずかしいので、ここではとらない。自分たちの音楽が商品になるなど思いも及ばないことだっただろう。商売は抜き……いや、実際はそうではなく、盲目のブルース・マンは昔の按摩さんみたいなものだったかもしれない。生活の糧としてブルースを演奏する。傍らに空き缶を置いて小銭を恵んでもらう、路傍の乞食と大差のない人たちも多かったと聞く。だが録音として残された音は、そうした現実を突き抜けて「ほんとうのもの」としか言いようのない深い情動を運んでくる。
 たとえばブラインド・ウィリー・ジョンソンの「Dark Was The Night」を聴いてみよう。できれば目を閉じて。この曲には歌詞がない。悲しげなスライド・ギターの音色と、うめくような、震えるような声だけの音楽。まるで彼の生そのものが音になっているみたいだ。粗末なギターを奏で、歌をうたうことが生きることそのものだったと感じられる。当人の存在と、ブルースと呼ばれる音楽が隙間なく重なって、彼がブルースなのか、ブルースが彼なのかわからない。

 言葉が言葉自身を生きはじめるとき、わたしたちが内面と思いなしている精神の層をつきぬけて内面より深い内包自然に行きつく。この自然はわたしたちが本格的にはまだ生きたことも表現したこともない未知にあふれている。なにかを伝えるための手段として言葉があるのではない。言葉はただ言葉自身を生きたいのだ。(同前)

 森崎さんが「内包自然」と呼んでいるものを音にすると、ブラインド・ウィリー・ジョンソンの「Dark Was The Night」のようなものになるかもしれない。1927年12月3日にテキサス州ダラスで録音された曲は、まさに「わたしたちが本格的にはまだ生きたことも表現したこともない未知にあふれている。」素朴で原始的な音だけれど新しい。根源的な響きであるがゆえに未知と未来を感じさせる。ぜひ一度、聴いてみてくださいね。

 前回は「一切のなぜが消える不思議」という話をしたけれど、盲目のブルース・マンほど「なぜ」にまみれた境涯は稀だろう。なぜ黒人として生まれたのか、なぜ盲目に生まれついたのか、なぜ、なぜ、なぜ……。彼ら自身が自分に向かって、社会に向かって、人智を超えたものに向かって無数の「なぜ」を発したはずだ。実際、ブルースの歌詞は不条理な「なぜ」に満ちている、と思われるでしょう。ところがですねえ、たしかに「なぜ」に満ちてはいるんですけど、その「なぜ」のほとんどは、「あの女」とか「あの娘」にたいする「なぜ」なんですねえ。なぜ?
 なぜ、おまえは出ていったんだ、おれを置いて消えてしまったんだ、他の男と行っちまったんだ、そんな「なぜ、なぜ、なぜ……」に溢れ返っていて、盲目のブルース・マンに寄せるぼくたちの心やさしい同情を軽く蹴飛ばしてくれる。痛快。たぶん、そんなレベルで彼らは勝負していないのだろう。お兄さん、言葉でいったい何が伝わるっていうんだい、というところから出発している気がする。言葉なんてハナから信用しない、という潔さが好ましい。その究極が「Dark Was The Night」の物悲しいスライド・ギターの音色であり、震えるようなうめき声である、とも言えるだろう。情感に直接訴えかけてくる音だけれど、けっしてべたつかない。乾いていて、屹立している。ブルースという音楽の美質である。
 たしかに盲目のブルース・マンたちの境涯は「なぜ」に満ちている。だが、そうした「なぜ」をいくら連ねたところでどうなるわけでもない、ということを彼らは身にしみて知っているのだろう。それほど彼らの生は、森崎さんが言うところの「世界の無言の条理」にさらされている。まさに内面化も社会化もできない出来事として一人ひとりの生がある。だから「残骸のように打ち捨てられ」た場所で、誰にも寄りかからずに自分の生を表現するしかなかった。粗末なギター一本で「なぜ」を消す方法を見つけ出すしかなかったのだ。
 人は「なぜ」によってつながることはできない。誰かの「なぜ」に善意や同情や寄せることはできるけれど、それはつながることではない。まったく違う。なぜなら彼らの「なぜ」は、あなたやぼくの「なぜ」ではないからだ。「なぜ」は各自のものであり、一人ひとりの「なぜ」は生まれも育ちも異なっている。「なぜ」という疑問詞とともに、ぼくたちはばらばらな生を生きると言ってもいいかもしれない。「なぜ」は生まれながらに孤独である。
 たしかに甚だしい「なぜ」は放置できない、と善良な人たちは考えた。自由・平等・友愛といった人権の理念が発案され、それを履行するための装置として民主主義が設えられた。おかげでアメリカでは黒人の大統領が誕生した。スポーツや音楽で高額な収入を得る黒人もたくさん生まれた。けれど一人ひとりの「なぜ」が消えたわけではない。各自の「なぜ」とともに、ぼくたちは引き裂かれたままだ。
 どうすれば人と人はつながるのか? そのヒントがブルースにはあるような気がする、というのは安易過ぎるだろうか。たとえばローリング・ストーンズがロバート・ジョンソンの「Love In Vain」をカバーする。クリーム時代のエリック・クラプトンが「Cross Road Blues」を取り上げる。それぞれに見事なまでに自分たちの音楽にしている。ミックもキースもクラプトンも、会ったこともないブルース・マンにたいする畏敬と感謝の念を繰り返し表明している。いい歳になり、金も名声も手に入れたいまでも、少年のころと同じ純粋な思いを向けつづけている。ディランは「Blind Willie McTell」という名曲までつくった。
 ロバート・ジョンソンは27歳で亡くなっている。最後は浮気相手の旦那に毒殺されるという、まさにディープ・ブルースを絵に描いたような生涯だ。彼の録音は29曲41テイクしか残されていない。自分の作った曲が100年近く先まで残って演奏されつづけるとは、夢にも思っていなかっただろう。もちろん印税など1セントも彼の懐には入っていない。いわばロバート・ジョンソンは無償で幾つもの曲を贈与してくれたのだ。贈り物を受け取った者たちは、彼への畏敬と感謝を忘れない。そしてストーンズやクラプトンを聴いて育った若い世代が新しいブルースを奏で、あるいは黎明期のブルース・マンたちの録音を聴いて様々な刺激を受ける。
 こんなふうにして人と人はつながるのではないだろうか。「なぜ」が消える場所で「ほんとうのもの」が現れ、「ほんとうのもの」だけが伝わっていく。何かが伝わるとき、すでに人と人はつながっている。「ほんとうのもの」は誰にでも伝わる。無償の贈与というかたちをとって伝わる。「ほんとうのもの」は無媒介に分かちもたれる。パスカルの言葉をもじって言えば、「ほんとうのもの」が現れるとき、そこは万人にひらかれた日向ぼっこの場所になる。

 言葉が言葉自身を生き始めるとはどういうことか。言葉が領域化し、還相の性となるのだと思う。言葉が言葉自身を生き始めるときに還相の性が立ち上がる。還相の性は言葉の言葉にたいする関係にほかならない。(「歩く浄土」174)

 森崎さんが「言葉」と言っているものを、ここでは「音」に置き換えてみよう。音が音自身を生きはじめる。なぜ、おまえは出ていったんだ、おれを置いて消えてしまったんだ、他の男と行っちまったんだ……陳腐なまでに常套化されたブルースの歌詞は、むしろ意味を拒んでいるように見える。音がどんな指示性ももたず、音そのものを生きるところから、「ほんとうのもの」という感触はやって来る。このとき一人のブルース・マンによって奏でられる音は領域化している。つまり誰にたいしてもひらかれたものとなり、無償の贈与というかたちをとって万人に伝わっていく。「還相の性」というのは森崎さんの言葉だけれど、ここでは「ふたりで分かちもたれるもの」というくらいの意味にとっておきたい。「ふたり」だから性なのだ。
 この「ふたり」は特定の二人ではなくて、いわば匿名の「ふたり」である。一応、「ロバート・ジョンソン」とか「エリック・クラプトン」といった固有名は付いているけれど、それは重要ではない。たまたまそんな名前が付いているだけで、他の誰であってもいい。なぜって音が音を生きるとき、そこは万人にひらかれた日向ぼっこの場所になるのだから。あらゆる「なぜ」が消えた不思議な場所に、ぼくたちは一人ひとりの「なぜ」を脱ぎ捨て、人格ならぬもの、各自ならぬものとなって、森崎さんの言い方を借りれば「性」として参入する。

 わたしは生が根源において二人称であることを表現の公理としている。表現の公理は言葉が言葉自身を生き始めると同一性という拘束衣を脱いでしまう。自己表現から内包表現へと表現が転位し、この表現の転位によって生もまた相転移する。こうしてあたらしい生の様式が内包表現によって誘発される。言葉が言葉自身を生き始めると、言葉の拘束衣を脱ぎ捨てた言葉が主で、自己という個人は従となる。個人の表現的な意志はここには介在していない。(「歩く浄土」181)

 自分よりも近いところに音楽がある。自分が自分であることの手前にブルースがある。音が主で、彼は従になっている。おそらく盲目のブルース・マンにとって、音楽とはそのようなものであっただろう。ぼくたちは「自己表現」という言葉を間違って使っているのかもしれない。自己表現とは、自己の表現ではなく、自己が表現されることである。自己とは二次的なもの、媒介的なものであり、無媒介に根源的な「ほんとうのもの」は自分よりも近いところにある。
 まなざしを変える必要がありそうだ。各自をアスリートの一人として同定するかぎり、ぼくたちはどこへも行けない。奪い合い、競い合う世界の外へ出ることはできない。一人ひとりが「なぜ」という各自性に引き裂かれるほかない。同一性とは別のまなざしで自分を見る、また他人を見る。総表現者の一人として自分たちを見る。そのとき各自性は消えて、ぼくたちは二人称の世界を生きることになる。盲目のブルース・マンと、彼の音楽を現代に奏でるミュージシャンが、根源の二人称において無媒介につながるように。会ったこともない、生存の時間さえ重ならないふたりが、お互いの表現を贈与し合うように。

 自己という現象も社会という制度もこの〔性〕のなかに呑み込まれていく。〔性〕はそれほど広大なのだ。世界とは〔性〕のことにほかならない。(「歩く浄土」182)

 ここで世界を構想し、生のイメージをつくってしまえば、怖いものは何もない。ぼくたち誰もが、「一切のなぜが消える不思議」を生きることができる。(2017.7.26)