小説のために(第四話)

 前回のアップが4月25日だから、4ヵ月以上のご無沙汰でした。その間に『なにもないことが多すぎる』(小学館)が刊行され、これについては長々と言い訳じみたことを書いた。この9月には早くも、つぎの作品『新しい鳥たち』(光文社)が出る。5ヵ月という短いインターバルで本を出せて、とても嬉しい。
 このエッセイでは他者の視線、眼差しということを書いてきた。ぼくたちは自分一人で自分になることができない。他者が介在することによって、はじめて自分になる。「自己」なるものが生まれる。誰かに見つめられ、その目に映った者を自分として生きることで「自分」になっていく。したがって問題は、どういう他者と出会うかだ。
 最初に登場してもらったコリン・ウィルソンは、『小説のために』という本のなかで、創作において問うべきことは、「わたしは誰であるのか」ではなく「わたしは本当は誰になりたいのか」であると述べている。これにたいして、ぼくが思いついた一つの答えは、「猫の目に映った者になりたい」というものだった。猫の目に映った者を「自分」として生きたい。なぜなら、その者は善良だから、邪悪さとは無縁のような気がするから。
 『新しい鳥たち』という作品は、一つの無垢な眼差しに触れて変わっていく青年の話だ。作中に主人公のこんなモノローグがある。

 

おまえの目に映った自分なら生きられそうな気がする。その自分を、その人間を生きたいんだ。ヤシ、目を開けろ。こっちを見てくれ。おまえの目におれを映しつづけてくれ。

 ここで主人公から「ヤシ」と呼びかけられている青年が、つまり猫なのである。ぼくが可愛がっていた猫のフクちゃんは、とうとう5月に死んでしまった。つぶらな瞳で見つめてくれることは、もうない。でも猫は、いまでもぼくのなかにいて、やっぱりぼくを見ている気がする。3年半ほど前に亡くなった父が、いまもぼくのなかにいて、息子の話に耳を傾けてくれるように。
 誰もが無垢な眼差しを待ち望んでいる。欲望や利害関係によって曇っていない透明な眼差し、暴力や邪悪さのない聖なる眼差しを。手っ取り早いのは、やっぱり猫を飼うことだろうな。もちろん犬でもトカゲでも、そこは面々の計らいでいいのだけれど。あるいは子ども。生まれたばかりの赤ん坊。彼らの眼差しもまた、この世でぼくたちが出会う聖なるものではないだろうか。

 ふと、こんなことを思い出した。もう三十年近く前の話になる。うちは男の子が二人いて、兄弟とも小学校に上がるまで近くの保育園に預けていた。年度末の移行期に保育園は2、3日休みになる。奥さんは看護師をしていたので、そんなときは一日、ぼくが子どもたちの相手をすることになる。小学校の校庭や公園で彼らを遊ばせ、お昼ご飯を食べさせて、午後はしばらく昼寝をさせる。
 そのころは公団のマンションの一階に住んでいた。小さな庭が付いており、庭に面した6畳間を寝室にしていた。布団を敷いて子どもたちを寝かせ、ぼくも横に寝転がった。お天気のいい四月の午後、障子を透したやわらかな春の日差しが部屋のなかに伸びている。子どもたちは気持ちよさそうにお昼寝だ。彼らの寝顔を見ているとき、突然、「なんて幸せなんだろう!」という思いが沸き起こってきた。これ以上の幸せはない。そんなものがこの世にあるとは思えない。自分のなかに収めておくのが難しいくらいの、圧倒的な多幸感だった。駆け出したくなるような、泣きたくなるような。
 いま自分がここにいるという現実が、恐ろしいほど神秘的なことに思えた。どうしてぼくはここにいるのだろう。一人の人と出会って、その人を好きになり、一緒に暮らしはじめて、子どもが生まれ、その子どもたちとともにいる。春の日差しが差し込む明るい部屋で昼寝をしている。この世界の、いちばん善きものを見つけた気がした。人が人であることの秘密に触れた気がした。
 なぜ人は結婚するのか、なぜ子どもをつくるのか。しかつめらしい問いを、そのときぼくが自分に向かって発したのは、答える自信があったからだ。春の明るい日差しのなかで、ぼくは問いに答えたかった。なぜ人は結婚するのか、なぜ子どもをつくるのか。小さな者たちの瞳に出会うためだ。透明な無垢なる眼差しに出会うことによって、善良な者になるためだ。人は誰でも善なる者でありたいと思う。でも自分が自分であることのなかには、いろんな濁りや、汚れや、邪悪なものが詰まっている。だから善なる者として生きるためには、猫のつぶらな瞳や、無垢な子どもたちの眼差しが必要なのだ。
 それが自由ということではないだろうか。ぼくたちが一時の気まぐれからであれ結婚したり、性懲りもなく子どもをつくったりするのは、自由になるためではないだろうか。自分が自分であることのなかに自由はない。無垢なる者の瞳に見つめられ、聖なる者の眼差しに触れて善良な者になっていくこと、善良な者になりうることが、人間にとっての「自由」ではないだろうか。
 フランス革命は間違っている。人権宣言は肝心なことを言ってない。自由とはなんなのか。人が自由であることの根拠は? そんなことにも、今度の本では触れようとした。うまく書けているかどうかわからない。皆さん、読んでくださいね(^^♪