小説のために(第十二話)


 少年は汽車に乗ってやってきた。ここは寂しい町の駅だ。客馬車が停まっている。少年は一人でとぼとぼと歩きはじめる。道のりは遠い。畑を通り、丘の裾を抜けて歩いていく。雲雀が鳴いている。ようやく農場の入口にたどり着く。看板が立っている。〔小岩井農場〕さらに歩いていく。
 (いつものとほりだ)
 前にも来たことがあるのかな? 鳥がたくさん鳴いている。ほら、聞こえるだろう。
 ぎゅつくぎゅつくぎゅつくぎゅつく
 ずいぶん歩いたね。白樺の木があらわれる。ここは北の大地だ。寂しくないのかい? こんなところまで一人で来てしまって。そうだ、音楽をかけてあげよう。グレン・グールドが演奏するモーツァルトの「トルコ・マーチ」。ゆっくりしたテンポで弾かれる、止まってしまいそうなマーチ。きみはひとりで北の大地を歩いている。途中で足を止めて、道端に咲く雑草を手折ったり、空を見上げて雲雀の姿を探したりするだろう。そしてまた歩き出す。グールドが演奏する「トルコ・マーチ」はそんな感じだ。
 寂しいときは口笛を吹けばいいよ。力いっぱい吹いてごらん。おや、向こうから悲しい顔をした農夫が歩いてくるぞ。くろい外套の男が、雨雲に銃を構えて立っている。いったい何を撃とうというのだろうね。明るい雨が降っている。

 すきとほつてゆれてゐるのは
 さつきの剽悍な四本のさくら
 わたくしはそれを知ってゐるけれども
 眼にははつきり見てゐない
 たしかにわたくしの感官の外で
 つめたい雨がそそいでゐる
  (天の微光にさだめなく
   うかべる石をわがふめば
   おゝユリア しづくはいとど降りまさり
   カシオペーアはめぐり行く)
 ユリアがわたくしの左を行く
 大きな紺いろの瞳をりんと張って
 ユリアがわたくしの左を行く
 ペムペルがわたくしの右にゐる
  (中略)
 ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ
 わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
 きみたちの巨きなまつ白はすあしを見た
 どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
 白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
  (中略)
 きみたちとけふあふことができたので
 わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
 血みどろになって遁げなくてもいいのです
               (「小岩井農場」パート九)

 透きとおっていく風景のなかから「遠いともだち」がやって来る。透きとおった風景のなかで、詩人は遠いともだちと出会う。どのくらい遠いのか。一万年? 十万年? もっとかな? ここで宮沢賢治という詩人が、永遠の「いちねんせい」であることを思い出そう。「いちねんせい」にとって男女の違いなんて、あってないようなもの。ヒトと動物、人間と自然といった差異も易々と乗り越えられる。だから犬とだって猫とだって虫とだって蟻とだって、ウンコとだって仲良くなれる! それが「いちねんせい」ってものさ。
 ユリアがジュラ紀に、ペムペルがペルム紀(二畳紀)に由来する名前だとすると、数億年の視野で考える必要がある。そのくらい遠いともだちなのだ。そこまで遡らないと、「わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから/血みどろになって遁げなくてもいいのです」ということにはならないのだろう。それにしても「血みどろになって遁げ」るとは穏やかではないなあ。先に見たように、この詩人は一方に「何をやっても間に合はない/世界ぜんたい間に合はない」という激しい焦燥感を抱えている。そこから「ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生れ/しかも互ひに相犯さない/明るい世界はかならず来ると」といった痛切な祈りは出てきていた。
 この祈り、どこかシモーヌ・ヴェイユの不在の神に向けた祈りを想わせる。

 神に祈ること。それも人に知られぬようにひそかに祈るというだけでなく、神は存在しないのだと考えて祈ること。(『重力と恩寵』田辺保訳)

 別のところでヴェイユは、「神の体験をもたない二人の人間のうち、神を否定する人のほうがおそらく神により近いところにいる」(前掲書、渡辺義愛訳)と、まるで親鸞の悪人正機みたいなことを書き残している。

 相矛盾することがらがどちらも真実である場合。神は存在する――神は存在しない。問題はどこにあるのだろう? 自分の愛が錯覚でないことを確信しているという意味合いで、私は神が存在することを確信している。実在するものがなに一つとして、神という名前を私が口にするときに思い浮かべることのできるものに似ていないことを確信しているという意味合いで、私は神が存在しないことを確信している。ただし、私が思い浮かべることのできないものは、錯覚ではない。(渡辺義理愛訳)

 とても大切なことをヴェイユは言っている。「神」を実体化してはいけないということだ。実体化された固有の神に祈ってはならない。「私は神が存在しないことを確信している」と彼女が述べているのはそういうことだ。「実在するものがなに一つとして、神という名前を私が口にするときに思い浮かべることのできるものに似ていないことを確信している」とは、キリスト教の神やイスラム教の神や、その他のいかなる宗教の神も、彼女が存在することを確信している「神」の名前には値しないということだ。
 これは『銀河鉄道の夜』の異稿で、ブルカロニ博士がジョバンニに「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」と語りかける言葉と正確に対応している。実在する固有の神に祈りはじめた途端、「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだ」と主張しはじめた途端、人間の歴史は「血みどろになって遁げ」なければならないものになってしまうのだ。
 しばらく前の新聞に、シリア北部ラッカ近郊にある「国境なき医師団」支援の病院に派遣されていた看護師が現地の状況を語ったものが載っていた。

 ある日の急患は父親と4歳の娘でした。先頭を歩いていたとみられる母親が手術室に来ることはありませんでした。父親は両足を切断し、目を覚ました後は自殺を防ぐのに病院のスタッフは必死でした。
 目を覚ますと足を地雷で失ったと分かり、叫び続ける若い女性には、鎮痛剤の処方に苦労しました。しかし「痛いのではなく、恐怖で叫んでいた」と途中で気づきました。(2017年11月2日付『赤旗新聞』)

 ぼくたちの目に直接には触れない遠いところで、いまも人間の歴史は血みどろだ。だからこそ、遠いともだちに出会う必要がある。ともだちの名前はユリアとペンペル。彼らは数億年の彼方からやって来た。現生人類が受け継いでいるミトコンドリアDNAという母系の遺伝子をたどっていくと、19万年前ごろに生きていた2000~1万人のアフリカ人に行き着くらしい(スティーヴン・オッペンハイマー『人類の足跡10万年全史』)。彼らは過去5万年のあいだにアフリカを出てヨーロッパやアジアへ移動した。このとき彼らは、「すでに描き、話し、踊る完全な現生人類だった」という。
 なるほど。ぼくたちにとっての「遠いともだち」は、少なく見積もって5万年~20万年くらいの時間を移動してやって来たのだ。彼らは「描き、話し、踊る」、おそらくは呑気な人たちだった。糖質セイゲニストの夏井睦さんによると、先史時代のヒトの人口密度は1平方キロメートルあたり0・1~1・0人と推定されており、これはJR山手線に囲まれる範囲に6~60人が生息している状態に相当するらしい。15人の集団で生活していたとすると最大でも4グループである。非常に人口密度が低かったから他の集団と遭遇することもなく、食糧をめぐって争うこともなかった。争うくらいなら逃げる(移動する)のが、先史時代のヒトの基本姿勢だった。
 ちなみに夏井さんは、ヒトが主に草原に生息する昆虫などを採集して暮らしていた500万年~5万年前を「先史時代」としておられる。

 先史時代のヒトの脳の基本仕様は、「努力しない、頑張らない、困ったら逃げる」であり、ヒトの脳が「努力する、頑張る、困難に立ち向かう」仕様になるのは今から5万年前以降のことで、ヒトの歴史500万年からすると、つい最近の変化である。(『炭水化物が人類を滅ぼす【最終回答編】』)

 糖質セイゲニスト夏井によると、この時代の一日あたりの移動時間(すなわち生きるための労働時間)は2~3時間程度であり、彼らは暇にまかせてセックスばかりしていたというのだが、ホンマかいな? まあ、結構なことではある。だが、〔小岩井農場〕で遠いともだちを迎える「いちねんせい」にとって、明けても暮れてもセックス三昧というのは、いかがなものか。心配は無用。そこは詩人・宮沢賢治だ。ともだちの名前はユリアとペンペル、数億年の彼方からやって来た。ヒトが誕生する遥か以前、ほとんど地質学的な遠方である。