小説のために(第十七話)


 『聖書』のなかでイエスは、「我よりも父または母を愛する者は、我に相応しからず。我よりも息子または娘を愛する者は、我に相応しからず」(「マタイ伝」10.37)と言っている。困ったことを言う人だなあ。家族よりも信仰を優先させるというのは、どんな宗教にとっても大事なことらしく、仏教の出家も家庭生活を捨てることが前提となっている。「イエスの方舟事件」のときは親が娘を返せと言って主宰者に詰め寄っているシーンをテレビで見たおぼえがある。「オウム真理教」をめぐる一連の事件でも、若い人たちが親に離反して教祖に従うことが問題になった。
 本論の主人公、宮沢賢治も若いころ日蓮宗の熱烈な信者だった。もともと宮沢家は浄土真宗で、父の政太郎もこれに深く帰依していたのに、賢治は家の宗教を日蓮宗に変えろと父親にしつこく迫っている。無茶である。とりわけ日蓮は法然の開基した浄土宗を激烈に批判し、なんなら武力をもって打ち倒してもいいみたいなことまで言っている人だから、宗派をめぐる宮沢家の父と息子の対立は、ほとんど宗教戦争みたいなものだったかもしれない。挙句の果てに、息子のほうは家を飛び出して東京へ行き、田中智学の国柱会で布教活動の下働きをするといった出家に近いことまでやっている。帰郷を促す父親には、「宗派を改めるまで帰らないぜ」みたいな手紙を出したりして、このあたりの賢治の一途な振る舞いは、オウム真理教の若者たちとあまり変わらない気がする。
 宗教という強力な共同幻想は、血縁や地縁などの紐帯を断ち切り、一人ひとりをばらばらのモナドにしてしまう。その上で、一つの教義の信者として束ね直す。こうして人々は固有の宗教を信じる者たちとして集団をなす。ユヴァルによると、人間が互いに親密に付き合うことのできる集団の上限は150人らしい。それ以上になると、なんらかの共同幻想が必要になってくる。

 近代国家にせよ、中世の教会組織にせよ、古代の都市にせよ、太古の部族にせよ、人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中にのみ存在する共通の神話に根差している。(中略)たとえばセルビア人が、互いに面識がなくても命を懸けてまで助け合うのは、セルビアという国民やセルビアという祖国、セルビアの国旗が象徴するものの存在を、みな信じているからだ。
  (ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』柴田裕之訳)

 ここでユヴァルが「集合的想像(collective imagination)」と言っているのは共同幻想のことだ。巧みに構築された共同幻想は恐るべき威力を発揮する。キリスト教徒の蛮行もナチスのホロコーストも南京虐殺も、そのようにして引き起こされた。1532年11月16日、ピサロに率いられた一団がペルーのカハマルカ高原で大勢の「異教徒」を虐殺したのは、カトリックや神聖ローマ帝国皇帝といった共同幻想のためだった。もちろん民主主義も人権も、人々の集合的想像のなかにのみ存在する神話であり、共同幻想であるから同様の威力を発揮する。現にアメリカなどは、民主主義を守るとか人権をもたらすとか言って世界中のあちこちを空爆している。まったく500年前にスペイン人たちがやったことと変わらない。科学技術の進歩によって殺戮の規模が大きくなっているだけである。

 あらゆる共同幻想は人々の生を引き裂く。いまさら言うまでもないことだ。ヒンドゥー教という共同幻想を信奉する人たちは、カースト制のもとでバラモンやクシャトリヤやヴァイシャやシュードラに分かたれる。その下にアウトカーストとして「チャンダーラ」と呼ばれる人々がいる。この言葉は「旃陀羅」という漢字の音写で日本に伝わり、部落差別に利用されることになった。1776年の独立宣言で平等を謳ったアメリカ人の多くは、自分たちの社会に白人と黒人というカーストが存在することをおかしいとは思わなかったようだ。彼らより開明的で「奴隷制なんてとんでもない」と考えるぼくたちにしても、金持ちと貧乏人のあいだの待遇の違いを不当とは思わない。金持ちが広い家に住み、名門校で学び、高額医療を受け、貧乏人はそうでないことを当たり前として済ませている。つまり本質的なところではインドのカースト制と変わらない。
 いつの時代のどんな社会も、それぞれの時代と社会の共同幻想によって成り立っており、したがってなんらかの差別やヒエラルキーは存在する。

 セーヴル=バビロン駅で、奇妙な落書きを見かけた。「神が望まれたのは不平等であって、不当ではない」とある。神の摂理にこれほど通じている人物はどこの誰だろうかと僕は思った。
  (ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』中村佳子訳)

 あいかわらずいやなことを言う人だ。でも当たっていると思う。たしかに万人は平等であるという理念は不当ではない。この不当ではない理念が、ウェルベックのいう「闘争領域の拡大」を経て不平等をもたらす。現に世界はそうなっているではないか。見易い道理だ。誰もが平等に自分の欲しいものを求め、そのための手段を行使することができるとしよう。このなかに貨幣を置いてみる。大半の人たちが貨幣という同じものを欲望し、それを手に入れるための手段を行使しはじめる。つまり競争であり、闘争であり、もっと強い言葉を使うなら戦争である。競い合うのはいやだ、闘争領域から抜け出したい、とあなたは考える。よろしい。唯一の方法は、もはや競い合う相手がいないというくらい、競争において圧倒的な優位に立つことだ。ビル・ゲイツを見習おうじゃないか。彼は見事に闘争領域から抜け出し、いまや慈善運動に精を出している。
 平等という理想は不平等という現実に行き着く。おそらく不可避的に。オルターナティヴは存在しない。ウェルベックほどの皮肉屋でなくても、「神が望まれたのは不平等であって、不当ではない」くらいのことは言いたくなるよね。
 差別が存在しない社会、ヒエラルキーのない社会を、これまでのところ人間は構想することができていない。なぜなら、ぼくたちは依然として人間的な自然を生きており、この自然は共同幻想と手を切ることができないからだ。それぞれの社会の主たる共同幻想はカースト制とか民主主義とかガンの早期発見・早期治療とかさまざまだろうが、共同幻想であるかぎりなんらかの差別やヒエラルキーが生まれる。どこから見ても不当ではないはずの「自由」や「平等」も、ユヴァルが言うように「人々が共有する想像のなかにだけ存在する共同主観的現実(inter-subjective reality)」=共同幻想だから、人類史上最強の共同幻想である貨幣と手に手を取り合って、不自由や不平等という現実を果てしなく生み出しつづける。
 こうした現実は、紀元前1776年ごろに制定されたハンムラビ法典の時代も現代も変わらない。ただ古代バビロニア人とぼくたちとでは準拠している共同主観的現実(共同幻想)が違うというだけだ。各々の社会を統べる共同主観的現実に応じて、多種多様の差別やヒエラルキーが生まれる。ハンムラビ法典を拠り所としたバビロニアでは上級自由人と一般自由人と奴隷が、カースト制のインドではバラモンとクシャトリヤとヴァイシャとシュードラが、自由と平等と貨幣を信奉するぼくたちの世界ではカタールとコンゴ、あるいはオランダとシエラレオネが生み出される。

 さまざまな差別に覆われ、厳格なヒエラルキーの上に成り立った人間の社会が、宮沢賢治はいやでいやでたまらなかった。この非情な人間の社会から、どうすれば離脱することができるのか。そのことを賢治はしきりに考える。彼の童話で繰り返し描かれる「焼身」の場面は、差別やヒエラルキーを不可避なものとする人間的な自然からの離脱、という主題が変奏されたもののように思われる。
 賢治の童話において、人間社会の差別やヒエラルキーは動物たちの「食べる-食べられる」という関係に、つまり食物連鎖の世界に置き換えられる。『よだかの星』のよだかは外見の醜さのせいで鷹にいじめられている。おまえみたいに醜い鳥が自分の似た名前をもっているのは不愉快だから「市蔵」に改名せよと理不尽なことを迫られる。このように差別や迫害を受けるよだかだが、生きるためには小さな虫を食べなければならない。虫たちの命を奪って生きている自分が、いずれは鷹に殺される。非情な生の条理から逃れるために、よだかは太陽のところへ行って焼け死のうと考える。太陽に断られ、他の星にも断られたよだかは、最後の力をふりしぼって高く空へ昇っていく。力が尽きたあとも飛びつづけるうちに、自分の身体が美しい光となって静かに燃えているのを見る。
 同じような話が『銀河鉄道の夜』に「さそりの火」として出てくる。このエピソードは、途中から汽車に乗ってきた女の子(弟から「かほるねえさん」と呼ばれている)によって語られる。小さな虫を食べて生きている蠍が、あるときイタチに追われて逃げているうちに井戸に落ちてしまう。溺れながら蠍は、これまで小さな虫たちの命を奪ったことを悔やみ、「どうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい」と神さまに祈る。すると蠍は、いつのまにか自分の身体が真っ赤な美しい火になって燃えているのを見る。
 これらの作品のなかで描かれる死は美しく、焼身を遂げるものたちに注がれるまなざしはやさしい。「よだかの星」の最後の場面を抜き出してみよう。

 それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のやうな青い美しい光になって、しづかに燃えてゐるのを見ました。
 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになってゐました。
 そしてよだかの星は燃えつゞけました。いつまでもいつまでも燃えつゞけました。
 今でもまだ燃えてゐます。

 「さそりの火」のエピソードも、「いつか蠍はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって」と結ばれており、「よだかの星」と同質のものを感じさせる。見田宗介さんはよだかやさそりが自分の火をかならず「見る」ことに注目し、「その〈死〉が、わたしたちの生活世界の「死」とは異質のもの」であり、「なにかのかたちで、くりかえすことの可能な死であることを暗示している」(『宮沢賢治』)と述べている。
 賢治の童話に見られる焼身自殺は、文字通り自分を焼き尽くすということではない。彼が描いた焼身は自己滅却への願望ではない。めざされているのは冷たい虚無ではない。もっと豊かでやわらかなものだ。それを言葉でうまく言い当てることができない。なぜなら彼の言葉が向かっているのは、食べるものと食べられるものが可視化されることのない、また実体化されることのない、いわば事物以前の世界であるからだ。
 たしかに彼の作品のなかで、よだかはよだかとして、蠍は蠍として可視化され、実体化されている。鷹もイタチも捕食者として視覚的に出現している。だから彼らは「食べる-食べられる」という、森崎茂さんのいう「固い生存の条理」に貫かれた世界を生きるしかない。その世界の先に、賢治は行きたかった。「固い生存の条理」を包む「やわらかい生存の条理」をつかみたかった。それは童話という形式で象徴的に描かれるしかないものだった。あるいは比喩として作品に持ち込まれるべきものだった。下手に言葉にすると倫理や規範になってしまう。たとえば仏教の「慈悲」みたいなものになってしまう。

 大方、生ける物を殺し、痛め、闘はしめて遊び楽しまん人は、畜生残害の類なり。万の鳥獣、小さき虫までも、心をとめて有様を見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、嫉み、怒り、欲多く、身を愛し、命を惜める事、ひとへに愚痴なる故に、人よりもまさりて甚し。彼に苦みを与へ、命を奪はむ事、いかでか痛ましからざらん。すべて一切の有情を見て慈悲の心なからんは、人倫にあらず。(兼好法師『徒然草』128段)

 これは一種の擬人法であり、根にあるのは動物たちへの同情と感情移入である。賢治の有情との向き合い方は、そんな生易しいものではない。彼らはみんな「遠いともだち」なのだ。「遠いともだち」が「食べる-食べられる」という関係のなかに置かれつづけており、自分もそのなかに巻き込まれている。こうした現実は、現象的な自己を無に帰すという、「解脱」とか「空観」とか呼ばれる自己修練みたいなものによって消えてはくれない。「固い生存の条理」に貫かれた世界のあり方は、自己満足的な解脱や空観ではどうにもならない。
 生はどこまで行っても「食べる-食べられる」という関係でしかありえないのか。そのことを生涯考えつづけ、殺し合いの連鎖ともいえる生命世界、果てしなく再生産される差別とヒエラルキーを逃れるために、賢治は「焼身」という比喩を作品に持ち込んだのだと思う。この比喩はぼくたちをどこに連れて行くのだろう。どんな世界を眺望させてくれるだろう。
 ここまで書いて、つづきをどう書こうかと思案していたとき、折りよく森崎茂さんの「歩く浄土」最新稿(242と243)がアップロードされた。さっそく拝読する。論稿のなかに、千石剛賢の『父とは誰か、母とは誰か』が引いてある。前に一度読んでいるはずだけれど、あらためて読むとこれが面白い。ぼくが考えあぐねているところを、千石さんがうまく言葉にしてくれている。ありがたい! さっそく使わせてもらおう。

 イエスを生活するとなると、その生活の中身はキリストでなきゃならんことになる。そこにキリストとの合体が起きる。その人格は、もちろんイエスになる。イエスになれば〈古き人〉が死ぬ。〈古き人〉が死ぬということになれば、これは罪は消えざるをえない。なぜならば、罪というものは〈古き人〉にしか作用してないんだから。(中略)キリストとの出会いということは、いうならば〈古き人〉が死ぬ、つまり自分が死んじゃうことだ。だから、生きようとおもってキリストに近づくと、実は反対に死んじゃうんです。それが〈十字架の死〉なんです。要するに、生きようおもうてキリストに近づくんですけど、でもほんとうに近づいていくと、死んじゃう。

 この死は、存在的な意味での死であって、生理的な、心臓が止まるとか脳波が止まるとか、そういう意味じゃないんです。この死によって人間の中身が変わっちゃうことです。

 千石さんが「イエスを生活する」と言っていることは、まさに賢治の「焼身」にあたっている。あるいはヴェイユが「私」を無にすると言っていることに相当する。キリストは「遠いともだち」である。「遠いともだち」は空間的に遠いところにいるのではない。それは「匿名の領域」から出現する何ものかである。キリストは見えない。超越的な存在として見えないのではなく、みすぼらしい卑小な他者として見えないのだ。その出現の仕方は独特である。自我が薄まったとき、ヴェイユの言い方では「私」が無に近づいていくにつれて、姿を現してくる。

 自分が無であることをいったん理解したならば、あらゆる努力の目標は、無となることである。この目的をめざして、すべてを耐え忍び、この目的をめざして働き、この目的をめざして祈るのである。
 神よ、どうかわたしを無とならせてください。
 わたしが無となるにつれて、神はわたしを通して自分自身を愛する。
  (『重力と恩寵』田辺保訳)

 最後の一文がわかりにくい。「わたしが無となるにつれて、神はわたしを通して自分自身を愛する」とはどういうことなのか? 森崎茂さんはつぎのように解いている。

 「自分自身を愛する」ように「私」も愛されるということは「私」が神であることを意味する。還相の神はヴェイユを楕円体のように領域化することになる。(「歩く浄土」234)

 ここで「神」と言われているものを「遠いともだち」に置き換えたい気持ちに駆られる。私が無になるということは、私が「遠いともだち」になることである。そのようにしてぼくたちはつながっている。万人が、すべての有情がつながり合っている。だから一つの機縁によぎられて無数の「あなたと私」が生まれる。タイタニック号の上でジャックとローズが出会う。地球上のあちこちで縁もゆかりもなかった者たちが出会い、かけがえのない「あなたと私」になる。いま、この瞬間にもマルチバースのように誕生している。江戸時代の哲学者・三浦梅園は「一即一一、一一即一」と言っている。「遠いともだち」は何かのはずみで固有の「あなたと私」であり、無数の「あなたと私」がマルチユニバースのように生まれるのは、もともと縁もゆかりもない者たち同士が「遠いともだち」であるからだ。
 可視化されることも実体化されることもない匿名の領域において、誰もが「遠いともだち」としてつながっている。だからヴェイユが言うように、この領域は「聖なるもの」なのだ。絶対的に善なるものだ。他の生命の犠牲の上に自分の生があるという、ヒトが人になる過程で巻き込んだ原的な罪を消すことのできる場所であり、他者を生存の手段として生きるという「固い生存の条理」を「やわらかい生存の条理」によって包むことができる場所である。