小説のために(第二十四話)

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 2016年7月に相模原市の障害者施設で起こった殺傷事件をおぼえておられるだろうか。事件から一年が経って、被害者の父親の一人が新聞のインタビューに応じた。亡くなった娘さんは35歳で、残されたお父さんは取材当時62歳ということだった。その年の春に、彼は癌と診断されたが、延命治療はせずに、毎朝仏壇の前で「もうすぐいくよ」と亡くなった娘さんに語りかけている。娘さんはコーヒーが好きだったので、仏壇にコーヒーを供えて「元気か?」と声をかけ、「元気ってことはねえか」とつぶやくのが日課になった、と記事は結ばれていた。
 言ってみたいことが幾つかある。まず生前の娘さんとお父さんの関係は、父・娘という実体のもとにある関係であり、知的障害のある娘さんを可愛がって世話をしていたということで、どこにも不合理な点はない。その娘さんが突然いなくなった。犯罪の被害者として亡くなられた。すると父・娘の関係は実体としてはもう存在していない。被害者の父親が生きているのは、実体化されない父・娘の関係ということになるだろう。
 こうした関係は目に見えないし、合理的な思考の範疇ではうまく取り出すことができない。たとえば医学や生物学が定義する死のなかに、「もうすぐいくよ」という場所はない。医学にとって死とは心停止や呼吸停止、生命活動の停止であり、また生物学的には、個体を形作っている細胞がみんな死んでしまえば、その個体は死んだとされる。最終的には水と炭素に分解されて終わりということになる。物質のレベルで死を記述すれば、おおよそそんなふうになるだろう。そのことに異論はない。しかし何か満たされないものが残ってしまう。未解決のものが残りつづけるように感じられる。それはなぜかというと、医学や生物学が記述する死が、ぼくたちの実感とはかけ離れたものであるからだろう。こうした乖離にたいして異議を申し立てる場所を、ぼくたちはもっていない。医学や生物学の死が唯一のグローバルスタンダードになって、世界市民として誰もがそれを受け入れるしかないという状況になりつつある。
 もう一つの死が必要なのだと思う。それは一人ひとりの固有な死とでも言うべきものだ。夫婦とか親子とか兄弟姉妹とか、実体として目に見える関係がある。それとは別にもう一つの関係がある。亡くなった父はいまも「いる」のだが、この関係は可視化も実体化もされないから、ぼく以外の人にとっては存在しないも同然だろう。だが、それを「ない」ことにしてしまってはいけないのだと思う。医学や生物学のなかには、目に見えない二人称のつながりの場所がない。実体化できるものだけが「存在する」ことになっていて、そのことがぼくたちの生を貧しく痩せたものにしている。まったく次元の異なるところで、誰もが固有の他者とつながっている。目に見えず、触ることのできない「あなた」を生きている。二人称の関係とは本来そのようなものだろう。

 今回も森崎茂さんが進められている内包論の話からはじめようと思う。内包論とは、医学や生物学の定義する死だけが唯一のものになろうとしている状況にたいして、強く「否」の声を上げるものでもあるからだ。まず実体化された夫婦や親子や兄弟姉妹の関係や、恋人同士、親密な友人同士の関係などを、内包論では「往相の性」と呼ぶ。吉本隆明の「対幻想」を含めて、外延的な世界ではこうしたものだけが二人称の関係である。これにたいして内包論では、目に見えない二人の関係、実体化できない二人称つながりを「還相の性」と呼び、それ自体として自存するものと考える。還相の性があるから、たとえば先の相模原事件の被害者の父親のように、「元気か?」「元気ってことはねえか」という言葉のやりとりが可能になる。そしてぼくたちは、亡き娘と残された父親の関係を深い共感とともに諒解できる。粗視化された新聞記事を通しても、父親の言葉は「善きもの」として広く確実に伝わるのである。
 医学や生物学は「もうすぐいくよ」という場所を定義できない。それは実体ではないし、目に見えるものでもないからだ。しかしある。誰にとっても思い当たるものとしてリアルにある。気のせいや思い込みや個人的希望や願望ではなく、「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」としか思えない、そういう場所としてぼくたちのなかにある。これを「還相の性」と呼ぶなら、還相の性にこそ人間の本来性はある、と内包論は考える。すべての人間に遍く根源的なものとして還相の性がある。したがって還相の性によって70数億の人類はすでにして無媒介につながっている。目には見えないけれど、たしかなリアルとして内包的な親族をなしている。それは実体ではない。とりあえず「喩」という言葉を使えば、全人類は喩としての内包的な家族である。

 二つの世界観、世界の二つの見え方がある。外延的な世界と内包的な世界。ちょうどニュートン物理学的な世界と相対論的な世界のように。二つの世界は矛盾なく並立している。位相を異にして同時に存在している。そしてローレンツ変換によって相互に翻訳できる。同じことが外延的世界と内包的世界、外延自然と内包自然についても言える。ぼくたちは二つの世界を往還しながら生きている。相対論的な世界と同じように、内包的世界や内包自然は通常の日常生活においてはほとんど意識されることがない。それは目に見えず、実体化もされないから、可視化され実体化されたものだけで出来上がっている外延的世界では、ほとんど遭遇する機会がないし、また通常は出会う必要もない。
 だが「死」のように切迫した状況、人の根源を問うような事象のもとでは、おのずから内包的なものが立ち上がってくる。相模原事件の被害者の父親の言葉は、娘の非業の死という理不尽かつ不条理な状況のもとで発せられたものだ。映画『タイタニック』のなかで、恋人のローズを助けようとして自らは冷たい氷の海に浸かった状態のジャックが、力尽きる間際に「きみは生きろ」と言い残す場面がある。ここにも二人のうち、どちらかしか生き残れないという過酷な状況が介在している。もうずいぶん前に、山手線の駅でホームから落ちた酔っ払いを助けようとして、日本人のカメラマンと韓国人留学生が進入してきた列車にはねられ、三人とも死亡するという事故があった。三人はたまたまそのときホームに居合わせたというだけで、まったく面識がなかったそうだ。やはり死に直結する切迫した状況で同じことが起こっている。
 誰に強いられたわけでもなく、おのずとそういうことが起こる。「もうすぐいくよ」とか「きみは生きろ」といった不思議な言葉が呟かれ、見ず知らずの者のために命を落とすという奇妙な行動が奇蹟のように現出する。「善」という言葉を使うなら、まさに恐ろしいほどの自由のなかでなされる絶対的な善である。この善なる場所が、還相の性として誰のなかにもあり、誰もが知らず知らずのうちに、還相の性が息づく内包自然を生きているのだとすれば、これ以上に大きな可能性があるだろうか。テロや戦争に明け暮れ、グローバリズムの猛威に曝されて国を閉ざし、異質なものを排除することに躍起になっている現行の世界、AIやゲノム編集によって心身を隈なく切り刻まれ、操作され、改変され、パフォーマンスのいい商品として流通させられようとしている未来、すでに目の前に立ち現れはじめている世界や未来を超えるヴィジョンとして、これ以上のものが提示できるだろうか。
 ことさらに事例の過酷さを強調する必要はない。誰だって好んで過酷な目に遭いたいわけではない。娘の非業の死を願う親はいないし、たとえ好きな人と一緒でも冷たい氷の海に投げ出されたいとは思わない。不慮の列車事故に巻き込まれるのも願い下げにしてほしい。おそらくぼくたちが日常的に生きている外延的世界はニュートン物理学みたいなもので、人間の生得的な知覚や感覚や思考と整合的に、しかも強固に織り上げられているため、その下に息づく内包的な知覚や感覚が外に出てくるには、固い殻を打ち破るための強い衝撃を必要とするのだろう。
 でもどうだろう、かくも過酷な状況のなかで顔を見せているのは、コンクリートに固められた地面の割れ目から芽を出した菫のように可憐でやわらかなものだ。「もうすぐいくよ」とか「きみは生きろ」という言葉には、彼らが置かれている状況に見合った過酷さはない。こわばった固さのかわりに、やわらかで穏やかなものが満ちている。山手線の列車事故にしても、実際に目にしたわけではない情景から漂ってくるのは、あの「ぱん」のいい香りだ。したがって物事の本質はつぎのように見なければならない。いかに過酷な状況にあっても、生をやわらかく穏やかなもので包み込んでしまえる場所が、万人のなかに例外なくあるのだと。
 どんな死も過酷であり、非業であり、不条理である。外延的世界では死はそのようなものでしかない。なぜなら外延的世界とは、自己なるものの同一性を絶対とみなす自然の上に構築されたものであるからだ。この絶対的な自己が、死に至る過程で老いや病気や物理的な暴力というかたちで同一性を失いながら、最後は無に帰する。死は自己という絶対性が毀損される許しがたい出来事である。このため外延的世界で死は究極の敵とみなされ、自己を死に至らしめる老いや病気は、あたかも犯罪者やテロリストのように排除と殲滅の対象になる。ところで外延的世界が誇る先端医療の現場では、実際にどのようなことが起こっているのか?
 たとえば末期の癌患者が苦しい治療に疲れ果てて死んでいくといったことが起こっている。それはぼくの親しい友人に一年前に起こったことだ。彼が最後に遺した言葉は「いつもありがとう」だった。ぼくには彼なりの「きみは生きろ」に聞こえた。もちろん「もっと生きたい」「まだ死にたくない」「でも疲れた」「もう充分だ」といった様々な倍音を豊かに含んだ「きみは生きろ」である。「きみは生きろ」と言われた気がして生きてきた一年、ぼくなりにいろんなことを考えた。いまはこんなふうに思っている。彼も最後は内包自然を生きたのではないか。誰のどんな死も、ただ生物体として朽ち果て、外延的世界のなかに打ち捨てられるようにはできていない。なぜなら外延自然の下には豊穣無尽な内包自然の大地が広がっていて、ぼくたちの生は深くしっかりとそこに根を下ろしているからだ。このことを親鸞は800年前の言葉で「自然法爾」とか「正定聚」とか言ったのではないだろうか。

 ぼくがじっと手を握っていると、祖父の顔に笑が広がった。「今生も悪くはなかったよ、リトル・トリー。  次に生まれてくるときは、もっといいじゃろ。また会おうな」そして、祖父は吸い込まれるように急速に遠くへ去っていった。(フォレスト・カーター『リトル・トリー』)

 ここにも相模原事件の被害者のお父さんの言葉と同じものが流れている気がする。こんなふうに言われたリトル・トリーのなかで、死は祖父のやわらかな言葉に溶けて見えなくなっているはずだ。なぜこんなことが可能なのか? 相模原事件のお父さんにとってもリトル・トリーのおじいちゃんにとっても、死は悪いものではなくなっている。それは各自が意識の内包性を、「もうすぐいくよ」とか「また会おうな」といった、それぞれの持ち味を生かした簡潔な言葉によって表現できているからだろう。これらの言葉が呟かれるとき、死はやわらかで穏やかなものに包まれる。人類が長く共有してきた死にまつわる信の共同性が、無意識のうちに解体されて、死は何か親密なもの、秘密の約束みたいなものになる。きまった呪文や暗号があるわけではない。その人にとっての、ふさわしい言葉がある。意識の内包性を表現する百人百様の言葉がある。言葉とともに死はおのずと超えられる。
 白人によって強制移住させられたチェロキー族の末裔でもある祖父の人生は、現実的には厳しく辛いものだったはずだ。最後に呪詛の言葉を遺してもおかしくはない。「白人を信用するな」とか「目にもの見せてやれ」とか。実際、若いころにはそんなことを思ったかもしれない。思わなかったはずはない。でも、いまは「今生も悪くはなかったよ」なのである。どうしてそんなことが言えるのか? 彼は内包自然を生きたのではないだろうか。外延的世界では誰もがアスリートであることを強いられる。そこには競争があり能力差があり所得格差があり多くの差別がある。外延的世界の現実は誰にたいしても多かれ少なかれ不遇感を与える。この不遇感は消すことができる。各自の言葉で還相の性の場所をひらき、それぞれのやり方で内包自然を生きることによって。
 現にリトル・トリーのおじいちゃんは、実人生において被ってきたであろう不遇感を見事に消すことができている。彼はいま孫とともに、外延的世界にいながら内包自然を生きている。生きることができている。だから自然な表白として「今生も悪くはなかったよ」が出てくるのだし、「また会おうな」というやわらかな言葉で死を包むことができているのだと思う。

 誰のなかにも還相の性があり、還相の性が息づく大地として内包自然がある。こんなふうに「還相の性」と「内包自然」という言葉を使うと、生きることがずいぶん楽になる。「この持ち合わせの自分と、与えられた境遇でまだまだやれるぞ」という太っ腹な気分になる。還相の性を身体の奥深くに埋め込んだぼくたちは、誰もがその場で内包自然を生きており、そこで万人が自分のやり方で自由に意識の内包性を表現することができる。還相の性を表現の核として内包自然を生きる誰もが、その場でただちに自由にして平等である。
 こんなふうに考えていくと、滅亡へ向かってとぼとぼと歩いているように見える人類の未来に明るい光が射してくる。孤独と絶望と憎悪に塗り固められた世界が違った様相を呈してくる。たしかに1パーセントと99パーセントという自然もある。奪い合う自然、適者生存という自然、それが世界を覆い尽くしているように見える。しかし人間のなかには、『タイタニック』のジャックみたいに「きみは生きろ」という自然もある。思わず身が動いて、見ず知らずの他人を助けるために命を落とすという自然もある。あとから美談になるほど稀な事例だけれど、たしかにある。誰の身にも起こりうることとしてある。だったら当然、分かち合う自然もあるはずだ。

 たくさんあるから はんぶんあげるね
 はんぶんになっても まだたくさん
 まだあるから はんぶんあげるね
 すこしへったけど まだあるから
 そのまたはんぶんあげるね
 とうとうあとひとつになってしまったけど
 それでもはんぶんにわってあげるね
 つぎにきたこには もうわけてあげられないから
 のこったはんぶんの ビスケットをあげるね
 ぜんぶあげちゃったけれど
 ビスケットとおなじかずの
 やさしさがのこっているよ     (堀江菜穂子「たくさんのビスケット」)

 こんな不思議なビスケットが出現するような自然が、まだこの世界には手つかずのまま残されているのだ。誰もがこの自然を生きることができる。なぜならぼくたちのなかには「還相の性」と呼ばれる意識の場所があって、ここをうまくひらくことができれば、ただちに「内包自然」と呼ばれる豊穣無尽な生へ赴くことができるからだ。う~ん、まだ固いなあ。自分で言うのもなんだが、言葉の息遣いが窮屈で苦しそうだ。こんな言い方しかできないのがもどかしい。ぼくにも「たくさんのビスケット」みたいな詩が書けるといいのだけれど。
 とにかく核になる言葉は森崎さんがつくってくれた。「還相の性」と「内包自然」だ。ぼくにとっては「これさえあれば大丈夫」というくらいの大切な言葉になっている。みなさんにとってもそうなることを願っている。非常にすぐれた汎用性のあるOSみたいなものだから、みんなで使って育てていこう。「還相の性」や「内包自然」という言葉は森崎さんが案出したものだけれど、もともと誰のなかにもあるものだから、誰のものでもない。特許も占有権もない。誰でも自由にタダで使うことができる。しかも使い放題で、いくら使っても減ることがない。むしろ使えば使うほど増えていく。まさに「たくさんのビスケット」ではないか。シルビオ・ゲゼルが考えた使うほどに価値を増すお金みたいだ。ミヒャエル・エンデの『モモ』みたいな話でもある。
 もっとわかりやすい例がある。しかもエンデやゲゼルよりもずっと身近なところに。お待たせしました。ようやく宮沢賢治さんの登場です。ご本人にはそんな意識は全然なかっただろうけど、賢治さんの詩や童話は、まさに「還相の性」を表現の核として「内包自然」を描いたものだと思う。彼の言葉では「遠いともだち」が、すなわち「還相の性」である。そして「遠いともだち」と出会う場所が「内包自然」ということになる。彼の生はいつも「遠いともだち」とともにあった。だから自分の生の場所を言葉にしようとすると、詩にしても童話にしても、おのずと「内包自然」の多彩で豊かな情景として描出されることになった。