小説のために(第二十一話)

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 北朝鮮の危機を煽って、いらない武器をたくさん購入させる。癌は怖い病気ですからと早期発見・早期治療を啓発し、癌が見つかれば抗癌剤を投与する。高血圧やピロリ菌のリスクを訴えて、降圧剤を処方したり除菌を勧めたりする。同じことだと思う。軍事費は言うまでもなく、医薬品もほとんどはぼくたちの税金で賄っているのだから、結局のところ、軍事産業や医薬品メーカーが国を使って商売していることになる。
 いまや国家は、グローバル化した企業が人々のお金を吸い上げる道具になっている。マルクスの時代に資本家が労働者を搾取していたとすれば、いまはグローバル企業が国家を運用して国民を効率よく搾取する。そういう仕組みが出来上がってしまった。国家とはグローバル企業にとってのマーケティング対象なのである。だからアマゾンのベゾスやマイクロソフトのビル・ゲイツがビジネスによって大金を得ることと、トランプや安倍や習近平やプーチンが国家を私物化して私財を肥やすことは、まったく同じことである。同じことと考えなくてはならない。逆に言うと、国家がそのようなものに変質し劣化してしまっているから、トランプや安倍のような暗愚でも大統領や首相が務まることになる。
 軍備を増強することも濃厚な医療を施すことも、国民の安全と健康を守るためという「道義」に則ってなされる。隣国の脅威を取り除くため、癌やその他の病気を征圧するための必要経費として、ぼくたちは米軍が使わない武器や、アメリカ国内で認可されていない医薬品まで購入させられている。そのことが政治家や医者の「善」としてなされる。たとえばAIが数千万の症例を参照して診断を下す。そうやって診断された病は悪であり、撲滅の対象になる。同様に、AIが数千万の人間を精査してテロリストの診断を下す。彼らはやはり殲滅の対象になる。繰り返すけれど、二つはまったく同じことなのだ。同じ流儀と思考の習い性にとらわれている。
 ぼくたちは国家を通して搾り取られていく。収奪され尽くして、最後は例外社会に放り出される。これが現在、すさまじい勢いで進行している事態である。この事態に、どう対抗すればいいのだろう。みんなが手をつないで、心を一つにして対抗できるだろうか。絶対にできない。無理である。そんなことが可能なら、とっくに地上から戦争も飢餓もなくなっているはずだ。人間に根深く息づいている私性を解除しないかぎり、自分だけはなんとか搾り取るほうにまわりたい、1パーセントに入って例外社会に振り落とされることを免れたい、と大半の者は考える。善悪や道義の問題ではなく、人間のつくってきた自然がそのようなものでしかないということだ。
 だったら別の自然をつくればいい、ということで森崎茂さんは「内包自然」という概念を創出された。この未知なる自然の上に、ぼくたちは言葉を紡いでいる。どういうことか? 根底にあるのは、病気を悪とみなし、死を忌まわしいものとする思考の慣性である。同じ習い性が、本来は「遠いともだち」である人々を敵やテロリストとして粗視化する。可視化し実体化された敵やテロリストは、癌などの病気と同様に撲滅の対象となる。
 まなざしを変える必要がある。戦争のない世界をつくることは、病気や死にたいするまなざしを変えることと同じある。死という人類最大の共同幻想から自由になることと、国家を無用のものにすることは、まったく同じ試みなのである。ぼくたちは死という虚構、人々に虚無や絶望しかもたらさない固い生存の条理を、やわらかな生存の条理によってひらくことができると考えている。音色のいい物語によって、死という虚構を、国家という虚構とともに包み込んでしまうことができると考えている。

 あるとき末期の癌を宣告される。余命半年から一年と言われる。頭のなかが真っ白になる。どうしていいかわからない。わからなくなって、どうするかは面々の計らいである。キューブラー・ロスによれば、ほとんどの人は五つの段階をたどるらしい。否認と孤立、怒り、取り引き、抑鬱と悲嘆、受容。取り引きのなかには、どんなに高額で苦しい治療でも受けるから、なんとか助けて欲しいという「取り引き」も含まれるだろう。
 こうした状況において、ぼくたちは誰もがデクノボーになる。金持ちも貧乏人も関係ない。ベゾスもビル・ゲイツもデクノボーになる。なるしかない。だってそうでしょう。いくら高度で高額な医療を受けることができたとしても、仮にそれによってひとまず延命できたとしても、いつか死はやって来る。かならずやって来る。その死はほぼ例外なく同じパターンをたどる。同じことが先延ばしにされ、反復されるだけではないか。お金があるだけに悪あがきの余地もあって、しかし医療は医療なので、あのろくでもない五つの段階を繰り返し体験させられることにもなりかねない。どっちがいいのかわからない。ここでは金持ちであることのアドバンテージは何もない。
 救いはないのか? ある。死を免れないとわかったときに誰もが突き落とされるデクノボー状態と、晩年の吉本隆明さんがフランシス子という一匹の愛猫によってなりおおせたデクノボー状態を、同じと考えてみよう。二つの場所はつながっている。末期の癌を宣告されたデクノボーは、「もう、この猫とはあの世でもいっしょだという気持ちになった。この猫とはおんなじだな。きっと僕があの世に行っても、僕のそばを離れないで、浜辺なんかで一緒に遊んでいるんだろうなあって」と述懐するデクノボーとつながっている。そう考えてみよう。ぼくたちは誰でも、そこへ行くことができる。

 それは死のなせる業だった。シャルルは恍惚によって不安と闘っていたのだ。彼は私のうちに地上のすばらしい作品を嘆賞し、そのことで、「すべては善だ、我々の慎ましい終焉でさえ善なのだ」と思いこもうとしていたのだ。山の頂や波頭や星々の間や私の若い生命の泉のうちに祖父が自然を探し求めたのは、いま彼のことを自らの懐に取り戻そうとしている自然をそっくり抱きとめ、自分のために掘られている墓穴も含め、一切を受け入れるためだった。(J-P・サルトル『言葉』澤田直訳)

 サルトルが自伝のなかで書きとめた祖父は、迫り来る自分の死をなんとか受け入れようとしている。キューブラー・ロスが言うところの「受容」の段階である。死を受容するという作業に、いわば孫は付き合わされている。そのことを幼いサルトルは敏感に感じ取っている。祖父の死は何かが回収されないような不全な感じを与える。この不全感を孫は長ずるに及んで冷徹に書き留めている。
 たしかにサルトルが書き残したとおりであったとも言える。一方で、彼にとって祖父の最期がそのように見えたのは、サルトル自身がデクノボーになれない人だったからかもしれない。もしも老サルトルが一匹のフランシス子と出会っていたら、そして晩年の吉本さんのようにデクノボーになりおおせていたら、もう少し別のことを書き残した気がする。サルトルの述懐のなかにある祖父は、すでに「遠いともだち」の場所を生きはじめているように見える。キューブラー・ロスが「受容」と言っているのも、じつはそういうことではないだろうか。
 彼女がチャート化した五つの段階は、ある思考のパターンによる粗視化を経ている。つまり死を「自分のもの」と考えている。ここに人類最大の錯誤がある。

 死を体験することはできないという、追い越しえない死の先駆性が死にはある。このなぞを緩衝するために共同幻想という虚構がうみだされた。死という虚構を埋めるために共同幻想が発明されたわけで、たしかにここに人間の思考にとっての限界がある。(森崎茂「歩く浄土」247)

 死は自分のものではない。自分のものでなどありえない。それは誰もが体験的に知っていることであり、『存在と時間』でハイデガーが「現存在であることの絶対的な不可能性という可能性」と述べているところだ。自分に帰属しえない死を自分のものと考えようとするとき、「死」という虚構が必要になる。虚構された死は自己に取り憑き、孤独と絶望に向けて個を締め上げていく。キューブラー・ロスがチャート化した死の五段階も、こうした虚構を前提としている。
 死を溶解させ、自己に回収できないものを回収するための装置として、宗教や国家といった様々な共同幻想が生み出されてきた。禅仏教でいうところの「自然への融即」はその典型的なもので、個別の計らいを超えた無限の存在に自己を溶解させるための修練法である。こうした修練を積むことによって、自己を取り巻く孤独や絶望は消え、解脱によってあらゆる苦しみから解放される。さらに無限の存在たる自然を「祖国」に置き換え、祖国日本を体現するものを一人の現人神に可視化し、実体化してわかりやすくしたものが天皇制である。

 蓑田はここに至って「天皇陛下万歳」と言って死ぬ瞬間の恍惚感に、究極の信仰の境地を見出した。そして、その死の絶頂の瞬間こそ、「自然法爾」の境地であると説いた。(中島岳志『親鸞と日本主義』)

 「蓑田」というのは蓑田胸喜のことで、三井甲之・井上右近らとともに原理日本社の機関紙『原理日本』(1925~1944年)を創刊し、編集人を務めた。原理日本社は日本の存在そのものを礼拝の対象とし、天皇制の絶対化を唱える超国家主義団体である。自分たちの思想と相容れない主張をする学者にたいして徹底した糾弾をおこない、京大滝川事件、美濃部達吉を排撃した天皇機関説事件、河合栄治郎や津田左右吉の著作発禁と大学教授の辞職・休職に追い込んだ事件……の「元凶」になった、と著者の中島は書いている。
 ここでは「他力」は、あるがままに随順することと読みかえられている。親鸞の他力を日本的に読み替えると、現人神天皇や祖国日本への随順になり、そこに個を超えた民族的生活が実現される。親鸞の他力の場所から、革命や社会変革は自力の最たるものとして糾弾・殲滅の対象となる。世界を変えようとする個人の小さな理性など、自力の計らいとして邪悪以外の何ものでもないと断罪される。
 蓑田という人には、まったく親鸞が読めていない。「天皇陛下万歳」と言って死ぬなんて、醜悪な自力の行使そのものではないか。一つの共同幻想にとらわれることによって、ここまで親鸞を「誤読」できるのだ。そのことに驚かされるが、驚いてばかりもいられない。祖国日本や現人神天皇への随順を嗤うぼくたちにしても、アメリカに随順する政権を支持するというかたちでアメリカに随順している。平成天皇夫婦を賛美するというかたちで天皇への随順という退行現象を起こしている。あるいは医療の現場では医者に随順し、治療から薬の処方からなんでもお任せにしている。同じことなのだ。
 もちろん親鸞の自然法爾とは蓑田が言うようなものではまったくない。誰のなかにも「遠いともだち」を生きることのできる場所があり、だから何も心配することはない、というのが親鸞の自然法爾(おのずからなる本来のすがた)である。そしてデクノボーの場所を、親鸞は「正定の位」(正定聚)と呼んでいる。人は窮地に陥り、孤独や絶望にとらわれて、言葉もなく膝を抱えてうずくまるしかないとき、おのずとデクノボーになる。デクノボーになることで、ぼくたちは「遠いともだち」を生きはじめている。個人の計らいを超えたところでなるべくしてなることだ。

 なぜ人は死に切迫されるとデクノボーになり、「遠いともだち」を生きはじめるのだろう。それは死がなぜ差異化され分節化されたかを問うことと同じだ。もしも人が一人としてはじまったのなら、ハイデガーが言うように死は「現存在であることの絶対的な不可能性という可能性」であり、自分では体験できないことだから、「死」という差異は分節化されようがない。「他者のもとで日常的に出来する死亡事例」でしかない。それは木が倒れたとか動物が死んだということと変わりなかったはずだ。ではなぜ「他者のもとで日常的に出来する死亡事例」でしかない一つの現象が、「死」として分節化され、前景化され、さらには「自分のもの」になってしまったのだろう。
 それは人が一人としてではなく、「ふたり」としてはじまったからだろう。もともと人間の世界は、あなたがいて、あなたがいて、さらにあなたがいて……というふうに二人称のものだった。ユヴァルがいうところの、せいぜい150人くらいの小さなバンドが二人称によってつながっていた。ここでは「私」も「自己」もなお現前していなかった。この二人称の世界に「死」が刻み目を入れた。つながりの表現として死が悼まれるようになった。そして悼みや悲しみの密度が濃くなっているところに、しだいに「自分」や「私」といった一人称の輪郭が浮かび上がってくるようになった。そういうことではないだろうか。

 死は、われわれの他者との関係の分節された形式なのだ。私は他者が原因でしか死なない、つまり他者によって、他者のために、他者のなかで死ぬ。私の死は代理される、たとえこの代理という語をどのように変化させようとも。そしてもし私が《究極の死の瞬間》に代理によって死ぬとしても、この代理的な剽窃はそれでもなお、原初から私の存在の全構造を作りあげてきたことに変りない。(ジャック・デリダ「息を吹きいれられたことば」梶谷温子・野村英夫訳)

 人が「ふたり」という場所を生きはじめていたからこそ、「ふたり」のうちの片方が、ある朝目が覚めると冷たくなっていて呼びかけても答えないし動かない、息もしていないという事態に直面したとき、何か得体の知れない情動、いまぼくたちが「動揺」とか「喪失感」とか「悲嘆」とか呼んでいるような感情とともに、「私」という場所が粗視化されてきたのだろう。「死は、われわれの他者との関係の分節された形式なのだ」とデリダが言っているように、「ふたり」というアナログな場所が、死という刻み目によって「あなた」と「私」というかたちで離散的にデジタル化されたのだ。
 デリダは「代理的な剽窃」などという、いかにも硬くて冷たい言葉を使っているけれど、言われていることは同じだ。人は一人でははじまっていない。はじまりえない。私の生誕は私のあずかり知らないところにあり、死も同様に私のものではない。私のものではない死を私に帰属させようとするとき、「死」という虚構が生まれた。そして私にとっては謎でしかない生誕と、私のものではない死とのあいだで営まれる現存在の時間が「自己」として仮構されたとき、死という虚構のなかから、様々な共同幻想とともに様々な自己幻想が流れ下ってくることになった。
 自己なる幻想が死という虚構に追い詰められて身動きがとれなくなったその場所で、本来の「ふたり」が息を吹き返してくる。それはあなたがいて、あなたがいて、さらにあなたがいて……というふうに二人称だけからなる世界だ。自分よりも手前に「ふたり」の場所がある。果てしなくつながるあなたを「遠いともだち」として生きうる場所がある。その場所は可視化も実体化もされない。だって見えないんだから。「遠いともだち」は見えない。ただ感じることができるだけだ。そしてあるとき「ローズ」や「フランシス子」として実詞化される。このとき「うれしい」とか「いとしい」とか「悲しい」とか「寂しい」とか「苦しい」とかいう感情とともに「私」が表現される。本来、「遠いともだち」とはそのようなものだ。「遠いともだち」を可視化し実体化するのは共同幻想だ。祖国日本や天皇の赤子といった共同幻想だ。そして「遠いともだち」の世界を敵と見方に引き裂くのも、やはり民族や宗教や国家といった共同幻想なのだ。
 あらゆる共同幻想は「死」という虚構から生まれているのだから、これを消すことができれば共同幻想も消える。そして現に消えるようになっている。各自が自分の置かれている境遇や状況に応じて各自の方法でデクノボーになる。その場所で「遠いともだちを」生きる。そのようにぼくたちの生は出来上がっている。辛いとき、苦しいとき、絶望のただなかで、ぼくたちはデクノボーとして「正定の位」へ往く。それはただちに浄土へ往くことのできる場所であり、この理を親鸞は「自然法爾」と呼んだ。そして「この道理をこゝろえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり」(『末燈鈔』)と釘を刺した。なぜなら、「遠いともだち」もデクノボーも明晰判明な意識の対象にならず、使い慣れた言葉によっては言語化できないからだ。
 自分の命が余命幾ばくもないものとわかったとき、ぼくたちは言葉を失いうずくまることによって、同じように言葉を失ってうずくまる人たちとつながっている。見知らぬ「あなた」とつながっている。もともと言葉をもたない動物や自然ともつながっている。だから空や海や木々の緑が一際美しく見えたり、足下の小さな花に目を留めて、かがみこんだまま動かなくなったりするのだろう。末期の目とは、デクノボーのまなざしなのかもしれない。この世でたった一人、どうしていいかわからない。このとき人は孤立と絶望のなかにあってつながっている。孤立無援のデクノボーとしてつながっている。わからない人と人が「遠いともだち」になる。
 人は誰もがデクノボーになる。それぞれが置かれた境遇や状況に応じて70数億のデクノボーになる。70数億のデクノボーは一人ひとりが孤立していて、絶望のなかにうずくまっている。そこは「遠いともだち」にひらかれた場所である。70数億の人々が「遠いともだち」を生きることのできる場所である。デクノボーは地上のあらゆる人、動物、自然と「遠いともだち」でありうるほどに自由である。また平等である。言葉もなくうずくまるデクノボーの有用性はゼロだから優劣をつけようがない。つまり平等である。自由であり、平等であり、そして戦争からもっとも遠いところにいる。70数億のデクノボーのなかには、すでに友愛や博愛が萌している。ぼくたちは誰もがデクノボーとして、自由、平等、友愛(博愛)とともにある。「億の巨匠が並んで生れ/しかも互ひに相犯さない/明るい世界」の入口に立っている。