小説のために(第九話)


 ナチスの政権下、ヒトラーをはじめゲーリング、ヒムラーなどの閣僚が、フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの第九交響曲を聴いて、全員が涙を流すほど感動したという。ゲッペルスが日記に記している。作り話ではないだろう。一方、アウシュヴィッツの収容所で、粗末なラジオから流れてくるベートーヴェンの音楽に救われた、という生還者たちの証言も数多く残っている。
 絶滅収容所のユダヤ人たちと、彼らを死に追いやる者たち。両者が置かれている境遇は対極的だ。しかしベートーヴェンの音楽が流れているあいだ、彼らはともに純粋に音楽に魅せられる者たちだった。芸術がもたらした奇蹟、ベートーヴェンの音楽が偉大だった、と言えば話は終わってしまう。たしかに偉大である。その偉大さはナチスやユダヤといった共同性をやすやすと突き抜けてしまうものだった。
 いったい何が起こっているのだろう? 何が起こっていると考えればいいのだろう。彼らはナチス党員やユダヤ人といった、個々の「私」の手前で音楽と出会っている、ということではないだろうか。各々の「自己」の手前にベートーヴェンの音楽がある。さらに言えば、「私は……である」という同一性に行き着く前に、ある種の普遍性に逢着しているように見える。この普遍的なものは「人間」と呼んでもいいかもしれない。
 人は生まれながらに人間であるわけではない。言葉として流通している「人間」は理念や観念に過ぎない。人は生まれながらにはユダヤ人であったり日本人であったり、男であったり女であったり、健常者であったり障害者であったりする。ぼくたちは通常、終生にわたって生まれながらの「どこの誰某」を生きる、というか生きさせられる。人は何かの機縁がなければ人間を生きることができない。この機縁が、たまたまベートーヴェンの音楽であったということだろう。音楽に聴き浸っているあいだ、一人ひとりが人種や民族、信仰やイデオロギーを超えて、ひたすら人間でありえた。ナチスの幹部たちもアウシュヴィッツに収容された人々も、ただ人間というデリケートな生き物であればよかった。
 こうした普遍性はベートーヴェンの音楽とともに、それ自体としてあるものだ。少しでも耳を逸らせた途端に消えてしまう。音楽との結合を離れてはありえない。つまり普遍性とともにあるのは、他の誰でもない「この私」なのだ。「この私」が直接的、非媒介的に「人間」という普遍的な存在としてベートーヴェンを聴いている。なぜ、このようなことが起こるのだろう? それは「この私」のなかに普遍性に応答する場所があるからだろう。誰のどんな生のなかにもある。例外はない。ヒトラーやゲッペルスのなかにもある。
 誰もがただ音楽の美に感応して、束の間、出自や立場や境遇を忘れてしまう。長く討議をつづけている森崎茂さんは、「一切のなぜが消える不思議」という言い方をよくされる。親鸞の自然法爾に近いと思う。

 自然の自はおのずからということであります。人の側からのはからいではありません。然とはそのようにさせるという言葉であります。そのようにさせるというのは、人の側からのはからいではありません。それは如来のお誓いでありますから、法爾といいます。法爾というのは如来のお誓いでありますから、だからそのようにさせるということをそのまま法爾というのであります。また法爾である如来のお誓いの徳につつまれるために、およそ人のはからいはなくなりますから、これをそのようにさせるといいます。これが判って、すべてあらためて人ははからわなくなるのであります。(『末燈鈔』石田瑞磨訳)

 一切のなぜが消える不思議な場所。浄土。シモーヌ・ヴェイユの言い方では「匿名の領域」ということになるだろうか。あくまで想像でしか言うことはできないのだが、アウシュヴィッツの収容所で粗末なラジオから流れてくるベートーヴェンに聴き入る人たちは、ほんの短い刹那、「一切のなぜが消える不思議」に触れたのではないだろうか。それに触れたことが、小さな救いをもたらした。現実は不条理な「なぜ」に塗りつぶされている。なぜ自分はユダヤ人なのか、ユダヤの星の下に生まれたばかりに、なぜ人間以下の扱いを受けて死んでいかなければならないのか。なぜ、なぜ、なぜ……そのような現実にあっても、自分は「人間」という普遍としてここにある。どんな不遇も、この普遍には届かない。そこから何かを奪うことはできない。
 どんな吉凶禍福も「この私」には届かない。運命的なものは「どこの誰某」という一般化された人格の、さらには人格の集合体である民族や国家や共同体に内属する。人間という普遍性でもあれば、誰でもない匿名性でもある「この私」を、運命的なものは同定することができない。現実的には彼はアウシュヴィッツの収容所にいるかもしれない。しかしベートーヴェンの音楽とともにある彼の固有な場所を、アウシュヴィッツは奪うことができない。どんな運命的なものも、そこには入っていくことができない。
 誰もが、この不思議を生きることができる。なぜなら、誰のどんな生のなかにも「一切のなぜが消える」場所があるからだ。たしかに「ある」ことを、ベートーヴェンの音楽が図らずも可視化してくれたのだと思う。ぼくたちが共同体的に同定された私とは別の固有の私を生きるとき、一人ひとりの「この私」とともに不思議な場所は出現する。なぜなら固有性のなかに「なぜ」はないからだ。「なぜ」が入り込む隙間がないくらい、自分が自分にぴったり重なっている。自分が自分に届いてしまっている。そんなふうにして「この私」はある。
 「この私」のなかには利己的なものは入ってくることができない。「この私」とは、人間という普遍性に応答するものだ。「ここはおれの日向ぼっこの場所だ」(パスカル)という我執や私利私欲はお呼びでない。そこは誰にとっても日向ぼっこの場所だ。ナチスもユダヤも関係ない。強者も弱者もいない。奪い合う世界の面影は、ここにはない。ぼくたちの生きている世界が適者生存の原理に統べられているのだとすれば、ここでは誰もが適者だ。さらに言えば、「この私」のなかに邪悪なものはない。ベートーヴェンの音楽に心を打ち震わせる者たちのなかに邪悪さはない。邪悪なものが存在しえない世界。人間という普遍性に応答するとは、そういうことだ。
 ぼくたちは自分の力では、「この私」を生きることができない。自力でどうがんばっても「この私」には届かない。固有な生は他なるところからもたらされる。届けてくれるのはベートーヴェンの音楽だ。音楽という一人の他者だ。一期一会の「あなた」という他者だ。「この私」は他性によって措定される。「何かがやって来るのなら、それは単純でなければならない、透明でなければならない」とウィトゲンシュタインは記している(『宗教哲学日記』)。たしかに何かがやって来たのだ。何か単純で透明なものが到来し、それが個々の人格を包み込んで、彼を誰でもない匿名の存在に、ただ音楽に心を打ち震わせる「人間」というデリケートな生き物にしてしまった。
 まさに「奇蹟」である。イエスによってもたらされる奇蹟とは、このようなものではないだろうか。イエスに触れることによって一切のなぜが消える。それがイエスのもたらす「癒し」だ。自分はなぜ忌まわしい病気に罹っているのか、自分たちはなぜ一つのパンをめぐって争っているのか、そうした「なぜ」の消えることが癒しであり奇蹟なのだ。
 しかも奇蹟をもたらすイエスは、いかなる荘厳も神の子であることの徴証も身にまとってはいない。それどころか外見はみすぼらしく卑小な一人の若者でしかない。現にピラトや彼の兵士たち、「十字架につけろ」と叫んだ群集たちにとって、イエスは社会の治安や秩序を乱す扇動者でしかなかった。だから平気で鞭打ったり、唾を吐きかけたりするのだ。だが、このありきたりな若者が、ある者たちには奇蹟をもたらす。
 ぼくたちはこのようにして他者と出会うのではないだろうか。奇蹟をもたらしてくれる一人の者と出会うのではないだろうか。彼や彼女の外見は、いかにもありきたりな男や女でしかない。しかし一つの出会いが普遍性との結合をもたらすとき、ぼくたちに知らず知らずのうちに「一切のなぜが消える不思議」を生きはじめている。

 Kの腕のなかで小さなからだが燃えていた。二人は抱き合ったままゴロゴロと転がった。Kは身をもぎ離そうとしたが離れない。数歩のところを転がり、鈍い音をたててクラムの部屋のドアにぶつかった。こぼれたビールがたまっていた。床にいろんなゴミがちらばっている。そのなかで抱き合ったまま、時間が過ぎていった。呼吸をともにし、ともに胸の鼓動を聞いていた。その間ずっと、自分がどこかに迷いこんでいくようにKは感じていた。すでに見知らないところにいる。ひとけのないところ、空気もまた生まれ故郷のそれとはちがっている。その見知らなさのあまり息がとまりそうなところ。だが、奇妙な魅力に誘われて、さらに先へ行くしかない。さらに迷いこむしかない。(フランツ・カフカ『城』池内紀訳)

 カフカの『城』の一節、居酒屋のカウンターの裏で測量士のKがフリーダを抱きしめる場面である。ミラン・クンデラは『裏切られた遺書』のなかで、「カフカが書いたもっとも美しいエロティックな場面」と述べている。ここでKはエロスという普遍性と結合している。するとこぼれたビールが溜まり、ゴミが散らばっている酒場の床の上が、どこでもない場所になっていく。「その間ずっと、自分がどこかに迷いこんでいくようにKは感じていた」とカフカは書いている。「すでに見知らないところにいる。ひとけのないところ、空気もまた生まれ故郷のそれとはちがっている。その見知らなさのあまり息がとまりそうなところ。」
 注目すべきは、Kのなかで起こっている普遍性との結合が一人の他者、フリーダという名の女性によってもたらされていることだ。ここではフリーダがベートーヴェンの音楽ある。あるいは一人の「イエス」である。親鸞にとっての仏である。谷川俊太郎にも似たような味わいの詩がある。

 どっかに行こうと私が言う
 どこ行こうかとあなたが言う
 ここもいいなと私が言う
 ここでもいいねとあなたが言う
 言ってるうちに日が暮れて
 ここがどこかになっていく

            (「ここ」『女に』所収)

 ここがどこかになっていく。天国か、浄土か、パラダイスか……呼び方はいろいろだけれど、たぶん同じことを言っているのだと思う。ぼくたちが一人の他者と遭遇するとき、自分が自分と取り持つ関係は共同体的なものから性的なものに相転移して、自分が自分に届いて「この私」になってしまう。私のなかに内在している何かが膨らみ、私を包んでしまう。ウィトゲンシュタインの言う単純で透明なものが到来して、様々な運命や境遇の下にある「私」を包んでしまう。私は「この私」のままで、「人間」という単純で透明な存在になってしまう。
(2017.7.18)