小説のために(第二十三話)

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 かつての宗教や宗派の対立や争いは、いまの言葉でいうと科学的な信をめぐるものがたくさんあったように思う。地球は動いていると主張するのにも、命を懸けなければならない時代があった。現在では科学的な信の問題として決着がついている。仮に天動説を主張する人たちがいるとすれば、それは宗教的な理由などによるものだろう、とぼくたちは推測する。彼らは希少な変わった人たちとして大目に見られる。どんなに奇天烈なことを主張しても、科学的な真偽ははっきりしているから、裁判で死刑になったりはしない。ところで科学的な真偽と日常の感覚とは、また少し違っていて、昔もいまもぼくたちは東から昇った太陽が西に沈むという天動説的な感覚のなかを生きている。つまり日常のレベルでは、あいかわらず天動説的な世界にいる一方で、天体の運行や宇宙のしくみにかんしては地動説的な説明を受け入れている。二つの学説を無理なく往還しているわけだ。
 現在、科学的な真偽がもっとも熾烈にせめぎあっているのは医療の現場だろう。抗争の現場に、しばしばぼくたちも巻き込まれる。生死をからめて丸ごとだから大変だ。5年にわたって対話をつづけてきた森崎茂さんが、先ごろ心筋梗塞で緊急事態に陥られた。その体験をご本人がブログに書いておられる。

 救命救急医療では医者がすべての権能を所有し、患者はそれを受け入れるしない。心臓の造影では心筋は瀕死の状態です。だからこの薬を点滴し、内服しないと心臓は止まります、と言われたら治療を受容するしかない。この脅迫は悪ではなく善意であることは了解するが、地獄への道は善意で敷きつめられているわけだ。がんの早期発見早期治療の脅迫とおなじものを心筋梗塞の先端医療に感じた。合法的な殺戮のしくみがシステム化されていて患者がそのことに異議を唱えることはできない。医学知の多くが共同の迷妄であると患者が思いつくことはない。(「歩く浄土」248)

 糖質の過剰摂取による血糖値の乱高下が血管へ酸化ストレスとして作用し、種々の生活習慣病を招き寄せるというのが理に適った説明である。この道理を制度としての医学は受容せずに危険な考えだとみなす。糖質過多のバランスのとれた食事と投薬によって高血糖をコントロールし、生活習慣病を予防する倒錯が生じる。糖質の過剰摂取の結果としてさまざまな生活習慣病が引き起こされる妥当な見解を抑圧し、投薬によって改善できるというまちがった考えが医学では真理とされる。(中略)先端医療を施す基幹病院の救急医療やがん治療は迷妄に充ちている。救命救急医療の熟練の技術と病因はみごとに乖離している。それが先端医療の現実である。(同上)

 どうやら先端医療の現場は天動説であるらしい。彼らの治療方針に異を唱える患者は危険思想の持ち主とみなされ、火あぶりにされることはないけれど医療の現場から追放される。「時代のなかにある迷妄はいつの時代も変わらない」と、森崎さんは日ごろから口癖のように言われているけれど、むしろ時代が明晰で開明的になっていくほど、迷妄の度合いは精度を増しつつ深く潜行していくのかもしれない。いまは大きな病院でCTを撮れば、写真集と見まがうほどの鮮明なカラー画像が現れ、しかも三次元になっているので角度を変えて患部を見ることまでできる。おかげで心臓カテーテル手術などは格段に進歩しただろうが、一方で森崎さんが言われるように、治療の基本となる考え方が熟練の技術と大きく乖離するという深刻な状況が生まれている。
 とりわけ癌治療の現場などは、容易ならざる事態になっていると思われる。母の知り合いは、去年の11月に膵臓癌が見つかり、二回手術をして3月に亡くなった。いくら末期の癌でも、発見から5ヵ月で亡くなるというのは、ちょっと理解しがたい。80歳近かったという年齢を考えても、急速に癌が進行することはないはずである。やはり手術や抗癌剤など、無理な治療をしたことが原因だったのではないだろうか。
 レヴィ=ストロースが呪術について『構造人類学』のなかで面白いことを言っている。まじないや呪詛によって実際に人が死ぬという事例は、世界の多くの地域から報告されているらしく、それがどのような心理・生理的メカニズムによって起こるのかを彼なりに考察している。まず自分に呪いがかけられていることを意識した人は、その人が帰属する共同体の伝統に基づいて死を免れないことを確信する。親族や友人もこの確信をともにし、彼を死すべき者として遇するようになる。まわりの者たちは機会あるごとに彼に死を示唆する。こうして本人は自分が死を免れないことの宿命を受け入れ、徐々に弱っていく。
 どうだろう? ぼくたちの社会において癌を告知されることとまったく同じではないだろうか。癌という病気がもたらす呪術的効果があるように思う。医者から「あなたは癌です」と告げられることは、「あなたは死を免れない宿命にある」ことを示唆されるようなものだ。とりわけ余命宣告などは呪いそのものとも言えるわけだから、お医者さんは絶対に口にしてはいけない。心無い一言は間違いなく患者に強い呪術的効果を与え、その人の生命を直接脅かすことになるだろう。すべての医者はただちにこのことを認識すべきである。いずれそうなることを願っているが、地動説が受け入れられるのと同じように間はかかるかもしれない。いまのところ早期発見・早期治療という共同幻想のもとで、患者に呪術的効果をもたらすことに熱心なお医者さんがほとんどと見てよさそうだ。大半は善意の人たちであり、それだけに迷妄の闇は深い。とりあえず一人ひとりが自衛するしかないだろう。

 救急医療にも先端医療にも固い生存の条理はあるがやわらかい生存の条理は微塵もない。身体の死はあるが人の死はない。(「歩く浄土」248)

 病気は悪いものだから治療する、癌は怖い病気だからできるだけ早く見つける、というのがこの場合の「固い生存の条理」である。いかに「固い」かは、「病気」を「テロリスト」や「犯罪者」に置き換えてみるとよくわかる。都合の悪いものは排除する、抹消し、殲滅する。そこには「ともに生きる」という発想がない。病気も同じである。最近では、ほんどの病気が生活習慣病であることがわかってきている。病気は自分自身がつくり出すもの、ぼくたち一人ひとりの生き方が「表現されたもの」でもある。癌をはじめとする病気は、その人がその人らしく生きてきた結果、彼の人生や人格の一面が表現されたものとも言えるわけで、病気とは何よりも自分なのである。無闇に治療することは自分を否定することにもなりかねない。頭から治療の対象とするよりは、自分の性格や生き方を見直す契機と考えたほうが無理はない。
 なるほど、病気についてはそうかもしれない。病気は自分がつくり出したものという考え方には一理ある。だがテロリストや犯罪者はそうではない。彼らは私ではない。たんに私を脅かす見ず知らずの他人である。そうではないか? まあ、そうなのだけれど、やっぱり固いよね。そうした発想や世界にたいする触り方を、森崎さんは「固い生存の条理」と言っているのだ。固い生存の条理に隅々まで覆われた世界を、やわらかい生存の条理で包み込もう、というのが内包論の試みである。

 わたしのかんがえでは、人間の人間にたいする最も直接的で本源的な関係は、内包存在にたいする分有者の関係であり、この自然的なおのずからなる関係のなかでは、内包存在にたいする分有者の関係は、内包存在である根源の性を分有する分有者と分有者の関係となってあらわれ、それぞれの分有者は還相の性によって統覚される。また還相の性を表現の核とすると、人間と人間の関係は共同性ではなく喩としての内包的親族という関係として表現され、喩としての内包的な親族が可能となるから、人間の自然にたいする関係は内包的な親族と内包自然の関係となってあらわれる。(「歩く浄土」219)

 何が言われているのかまったくわからない、という人がほとんどだろうと思う。当然である。それは普通の人にアインシュタインの相対性理論がわからないのと同じである。だが数学・物理学的に正確に理解できなくても、入門書や解説書を何冊か読んでいるうちに、相対性理論の雰囲気くらいは感じ取れるようになる。相対性原理や光速度不変の原理によって記述される宇宙というものが、なんとなくイメージされてくる。ぼくは学生のころ、相対性理論を理解できれば文系の連中にたいして虚勢を張れると思い、ちょっと集中的に勉強したことがある。鉛筆を持って練習問題を解いているうちに、ローレンツ変換と特殊相対性理論については完全に「わかった!」と思う瞬間があった。森崎さんの内包論も似たところがある。かなり集中的に付き合わないと「わかった!」は訪れない。訪れても瞬間的である。すぐにまた遠ざかってしまう。それほどぼくたちがとらわれている日常の感覚と思考の慣性は強力なのだ。天動説と地動説のあいだを往還するよりは、もう少しハードルが高いかもしれない。
 最初に大雑把なイメージをつかんでおきたい。まず自分という個人があって世界がある、というのがぼくたちの日常感覚であり天動説に相当する。モナド的な自己を中心に、その外側に世界が広がっていくというイメージから「外延的」と呼ばれる。ぼくたちが日常の感覚で生きている世界は外延的世界であり、外延的自然である。このなかに社会や政治やテロや戦争やヒューマニズムや人権や、すぐに切れてしまう「絆」や、つながっているのかいないのかわからない「つながり」などがある。さらに言えば、「死」もある。
 ここが肝心なところだ。内包という拡張された世界には、厳密な意味での「死」は存在しない。「死」は消えて生だけになる。内包的な知覚のなかでは、死は箱庭のような外延的自然の景観の一部になる。そのなかにすっぽり収まって、小さな窪みや襞のようにしか見えない。荒唐無稽なことを言っているように思われるかもしないが、もうしばらくご辛抱願いたい。それほど無茶な話にはならないはずだ。少なくともアインシュタインの相対性理論が受容される程度には、「内包」という考え方も受け入れられると思う。頑張って説明してみたい。

 相対性理論のポイントは観察者の視点、観点の変化を受け入れるということだと思う。たとえば非常に高速で運動している観察者には、普段ぼくたちが歩いたり走ったり車に乗ったりしているときとは、まったく異なる世界が立ち現れる。どちらかが正しく、どちらかが間違っているというのではなくて、二つの世界がある。静止している観察者の世界と運動している観察者の世界、それぞれの立ち現れ方があるとするのが相対論的な考え方である。二つの世界は相互に変換可能であり、このための手続きが「ローレンツ変換」と呼ばれる。変換というよりは「翻訳」といったほうがいいかもしれない。二つの世界は相互に翻訳できる。だから対立や抗争は起こらない。二つの世界観は並び立つ。
 ぼくたちの日常の感覚は、昔もいまもニュートン物理学と親和的な関係にある。このことはアインシュタインの相対性理論を排除しない。なぜなら二つの言語は相互に翻訳が可能だからである。翻訳可能ということは、二つの世界を自由に往還できるということである。国内では日本語を喋り、海外では英語を使うようなものだ。ぼくの場合はほとんど日本語しか喋れないし、日本語で書いたり考えたりしている。つまり日本語は、ぼくにとっては日常的な感覚であり、いわばニュートン物理学に相当する。しかし日本語を絶対的と考えているわけではなく、それぞれの国や民族に彼らの言葉があり、言語としての優劣はないと思っている。とりあえず英語が広くコミュニケーション・ツールとして使われてはいるけれど、それとても絶対的なものではなくて、たとえば文学の世界では、スペイン語やロシア語やフランス語やドイツ語やイタリア語や中国語などが、ほぼ対等に「世界文学」を構成している。
 もう一つ、相対性理論のポイントは光の速度を基準にするということだろう。相対性理論において光の速度は絶対的であり、これにたいして他のものは相対的ということになる。相対論的な世界とは光を基本として構想された世界と言うこともできるだろう。同じような言い方を内包論についてするならば、それは〔性〕を基本として構想された世界ということになる。内包論においては〔性〕が根源的で、その他のもの、たとえば自己や社会や共同体などは〔性〕にたいして相対的、より適切な言い方をすれば事後的とみなされる。アインシュタインの相対性理論において光が特別であるように、森崎さんの内包論では〔性〕が特別であり、他のものと同列(同格)には論じられない。

 人間は個人であるまえに〔性〕であるとこれからも内包論は主張する。個人から〔性〕が出てくるのではない。個人は自己の同一性を前提としている。同一性がなにを生みだしてきたかは明瞭で、わたしたちの知る人類史である。内包論では個人は性を分有することからあらわれると考える。(「歩く浄土」224)

 自己なる個人があり、個人と個人の関係として家族や社会がある。さらには国家や国家同士の関係がある、というふうに考えていけば、いまある世界と、これまでに人間が経てきた歴史になる。この世界と歴史は明らかに行き詰っていて、もはやどこにも行けなくなっている。どこにも行けない世界で一人ひとりの生がまるごと市場として開放され、AIやゲノム編集をはじめとするハイテクノロジーとIT企業によって断片に至るまで商品化されようとしている。この流れは止まらないし、誰にも止めることはできない。
 いまある世界とは別の世界を構想し、未知の歴史の可能性を探ろうとするのが内包論の試みである。そのために内包論は知覚や感覚の拡張を求める。それはニュートンの物理学からアインシュタインの相対性理論へと世界観が拡張されることに似ている。相対性理論の立場からすると、ニュートン物理学は地球という環境や人間の身体(知覚や感覚)によって制約された世界観である。つまり相対性理論という拡張された世界の一部としてニュートン物理学的な世界がある。同様のことは内包論についても言える。内包論は現行の世界と歴史が、同一性という制約にとらわれた不完全なものであることを示す。それとともに、ぼくたち一人ひとりが相対性理論に相当する拡張された世界観をもつことを提唱する。

 ただ、人は個人である手前に内包的な存在であるという存在の複相性を生きるほかに国家や政治や戦争のない世界を遠望することも、貨幣の交換を贈与に転換することもできない。それだけはたしかだと思う。(「歩く浄土」232)

 なぜ「たしか」なのか? 自己同一的な個人を起点に据えると、ニュートン物理学の世界観と同じように、ただ一人の個人、すなわち自己の視点だけが絶対的になるからである。すると世界は一様にしか見えない。個人と個人が出会う対なる関係としての家族があり、大勢の個人が集まった社会があり、社会的な個人を通約するものとして貨幣や政治があり、また国家がある。自己なる個人は絶対的であるから、個人と個人は対立し、ときに抗争する。個人がつくる国家と国家の利害が衝突すれば戦争が起こる。こうして現行の世界とぼくたちが知っている歴史が立ち現れることになる。

 変わるだけ変わっって変わらないもの、変わるほどに変わらないものは、同一性の手前にリアルに存在している。(中略)あまりに近すぎて可視化することも分離することもできない。この性をそれ自体として取りだして対象化することは自己意識によってはできない。性はいつも自己に先立ち自己の手前にある。(中略)自己や社会に先立ち自己や社会のはるか手前にある意識の内包性を、それ自体として自存するものとして表現するとき世界は革まる。(「歩く浄土」224)

 何が言われているのだろう? 自己は自己としてはじまったのではない、ということが言われている。自己に先立ち自己の手前に〔性〕がある。この〔性〕は生物学的な雌雄とも社会的なジェンダーとも次元を異にするから「根源の性」と呼ばれる。自己同一的な個人は根源の性にたいして事後的である。だから〔性〕を基準にして未知なる世界を構想することができる。一人ひとりがそれぞれのやり方で「根源の性」と呼ばれる意識の内包性を表現できれば、その場でただちに現実として世界は革まる。
 なにを馬鹿なことをと思われるかもしれないが、ほんとうである。たとえば日本の国民の半分が癌検診を受けなくなれば、あるいは抗癌剤などの無理な治療を拒むようになれば、その日からただちに医療の現場は変わる。医療はこの国の基幹産業であるから、おのずと政治や社会も変わる。しかも大きく変わる。変わらざるを得ない。こうして世界は革まる。世界が革まるとは、ぼくたちの生き方が変わるということなのである。どのように変わればいいのか? どのように変わりうるのか? 自己の手前にある意識の内包性を、一人ひとりがそれぞれのやり方で表現すればいいのだ。
 意識の内包性とか、根源の性とか、いったいなんのことだ? そんなものがどこにある? たしかに森崎さん自身が「可視化することも分離することもできない」と言っている。自己に先立ち自己のはるか手前にあるから、それ自体として取り出して対象化することは、少なくともぼくたちが通常「意識」と考えている、明晰判明な自己意識によってはできない……にもかかわらず、それは「同一性の手前にリアルに存在している」のである。
 そもそも目に見えないとか、実体として取り出すことができないというのは本質的な問題だろうか。数学の「1」にしても「点」にしても本来は観念としてしか存在しない。それを「1つのリンゴ」とか「句読点」とか「標準点」とかいうように、可視化し実体化して日常的に使っている。目に見えず、それ自体として取り出すことのできない時間を、「過去」や「未来」として可視化し、過去を「過ぎ去ったもの」、未来を「まだ存在しないもの」というかたちで実体化している。数学や物理学の分野では、目に見えないものや実体として取り出すことのできないものを、数式などのかたちで対象化したり座標や図式のかたちで可視化したりすることは、ごく当たり前におこなわれている。こうした操作によって、たとえば相対性理論では、人間の知覚や感覚がはるかに及ばない宇宙のような巨大なものをうまく説明できるようになった。また量子力学では、ぼくたちの日常的な感覚が遭遇することのないミクロの現象をとらえ、これまで人が知りえなかった微細な世界を素描できるようになった。
 では内包的な意識は、どのような新しい知見をもたらすのだろうか。一つは、死が内包的に拡張された生の一部であり、厳密な意味で「死」というものは存在しないことを示す。もう一つは、国家や貨幣といった媒介(共同幻想)なしに、すべての人類が内包的な親族としてつながっていることを示す。内包的な知覚のなかでは、一般に「死」と呼ばれているものは存在しない。「死」は消えて生だけになる。なぜなら意識の内包性において、「死」は「領域としての自己」として表現されるからである。ぼくたちが「死」と呼んでいるものは、外延的自然という環界に置かれた同一的な自己のなかに不可避的に生じる特異点が疎外されたものである。呪文のように聞こえるだろうか? そうだとすれば、いまぼくは内包的な言葉を喋っているからだろう。それは宮沢賢治の擬音(オノマトペ)のようなものだ。
 少し具象化して説明してみよう。いまあなたはプラットホームにいる。そこに電車が停まっている。電車にはあなたの大切な人が乗っている。恋人でも親でも親友でもいい。電車が出る。大切な人は去っていく。あなたは取り残される。これが現在、一般に考えられている「死」である。しかし地球は自転しているわけだから、プロットホームも、そこにいるあなたもものすごいスピードで動いている。電車のスピードよりもはるかに速い。地球の自転速度は赤道では時速1700kmほどになる。マッハ1.4だ。東京でも1300km以上で、ざっとマッハ1.1。新幹線の最高速度が時速280kmくらいだから、地球はその6倍ほどのスピードでまわっていることになる。あなたの大切な人が乗った電車なんて、動いていないようなものだ。
 こんなふうに日常の感覚のなかに内包的な意識を入れてみると、死はローレンツ変換されて生の一部になる。生の一部とみなしても、それほど大きな誤差を生じないものになる。世界観が拡張されることによって、ぼくたちが絶対的なものと考えている生と死の隔たりは、相対的なものになってくる。去っていく大切な人と取り残されるあなたは、粗視化すればともにマッハ1.4で動きつづけている。電車で立ち去ったといっても、ほとんど止まっているに等しい速度で離れているに過ぎない。そんなスケールの大きな世界を生きてみないか? ぼくたちと一緒に探査しようじゃないか。現にそれは「ある」のだ。これまでの思考や言葉の用法ではとらえることができなかっただけだ。

 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つていたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。(宮沢賢治『注文の多い料理店』序)

 ここで「ほんたうに」と言われていることは、「そのとほり」に受け取らなければならない。相対論的な世界のなかで「錯覚」が錯覚ではなくなるように、内包的な世界では、気のせいや思い込みや個人の希望や願望とされてきたものが、「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」というふうにして立ち現れる。ぼくたち一人ひとりが相対論的な考え方に馴染むようにして内包的な知覚や感覚に馴染み、意識の内包性を生きるようになれば、「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」ことが万人に共有される。内包的な世界の住人として、70数億の人類は国家や貨幣やテクノロジーなどの媒介を経ずに、ただちに直接的な内包親族、内包的な家族になってしまう。