人間のなかの善なるもの

講演原稿
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 このところ日本各地で地震や大雨などによる被害がつづいています。自然災害の少ない土地という印象をもっていた愛媛県も、今年は豪雨に見舞われて30人以上の方が亡くなり、農業を中心に大きな被害が出ました。昔にくらべると暑さも寒さも極端になり、日本らしい四季がなくなって、季節が夏と冬だけになっている気がします。これは日本にかぎらず世界中で見られる現象のようです。地球の温暖化が関係しているのでしょうか、異常な猛暑、豪雪、旱魃といったニュースをよく耳にします。台風やハリケーンによる被害とあわせて、地球全体の気象が荒れているという印象をもちます。

 気象や気候だけではありません。人間の世界も荒っぽくなって、あちこちで紛争やテロがつづいている。グローバル化にともない、人や物やお金の動きがかつてなかったほど激烈になっていることが主な要因でしょう。結果的に大きな経済格差が生じている。毎年オックスファムという国際NGOが試算を発表していますが、今年は世界中の貧しいほうから半分の37億人と、長者番付で上位42人の資産総額が同じだったそうです。数字上のこととはいえ、極端な富の偏在が生じていることが実感されます。こうした実感が国や民族を超えて共有される。とくにコンピュータやインターネットの急速な進歩によって、情報の流動性が飛躍的に大きくなったことが、世界中の人たちを敏感にして、様々な場面で過剰な反応を誘発しているように思います。

 一方に自然災害があり、他方に格差などによってもたらされるテロや紛争といった政情不安がある。ヨーロッパでは移民や難民の問題が深刻化している。両者は同質のものと考えたほうがいいと思います。日本はいまのところテロや紛争に巻き込まれていないし、移民や難民の問題も表面化していません。しかし各地で大きな自然災害がつづいている。それはヨーロッパや中東で起こっていることと、同じ文脈のなかでとらえたほうがいいように思います。つまり世界中の人たちが、その国なりの事情や歴史的・地理的条件によって、現れ方は様々ですが同質の問題に直面している。ぼくたちの場合であれば、このところ大きな自然災害が身近に起こっている、その身近な問題、自分たちの身に降りかかってきた問題を考えることが、テロや難民の問題を考えることと同じになると思います。

 自然においても政治や経済においても、世界全体が不安定で不穏になっている。そのなかで人と人が助け合い、支え合う場面が増えてくるはずです。さらに言えば、中国や東南アジアからたくさんやって来ようとしている新しい隣人たちとも、助け合い、支え合っていく必要がある。だからこそ人間のなかにある善なるもの、国籍や民族を超えて万人がもっている善きものに目を向けることが大切だと思います。

 最近は仕事などで奈良や京都に行くことが多く、時間があるとお寺をまわって仏像を見ています。法隆寺でも東大寺でも興福寺でも、ぼくたちが見ている仏像の多くは色が剥落し、もとの姿をとどめていません。考えてみると、彼らはものすごく高齢なのですね。超のつくお年寄りです。天平時代に造られたものなら、優に1200歳を超えている。しばらく前に新薬師寺で、堂内に安置されている十二神将を、最新の技術を使って復元するというプロジェクトのビデオを観る機会がありました。十二神将というのは薬師如来の眷属で、文字通り十二体の像が如来像を取り囲むように配置されています。このうちのバザラ像に、わずかに残っている塗料などを分析し、コンピュータ・グラフィックスで色や模様を一つ一つ貼り込んでいくという試みでした。すると地味なバザラ像が、タイの寺院などで目にする仏像のような極彩色の艶やかな姿になってしまいました。当時の人々は、この色鮮やかな像を拝んでいたのですね。

 奈良などのお寺には、頭や腕のとれた破損仏がたくさんあります。いまの言葉でいうと重度の身体障害者です。これらの仏像が五体満足の仏像と同じ存在感をもち、ときに完全仏以上の魅力や親しみを感じさせる。能力主義や成果主義がもてはやされる時代ですが、そういった基準からすると彼らのパフォーマンスはほぼゼロです。にもかかわらず、ぼくたちは色褪せた超高齢の仏像や、身体的に大きなハンディを抱えた破損仏に手を合わせている。信仰心の有無はあまり関係がない気がします。誰もが知らず知らずのうちに掌を合わせたくなる。心静かにたたずみたい気持ちになっている。外国人を含めて多くの人がそうだろうと思います。年寄りも若者も、お金持ちも貧乏人も、身分や境遇に関係なく、仏像の前では不思議と手を合わせたくなる。これはどういうことなのか考えてみます。

 まず仏像というのは何もしません。目に見えるかたちでの働きかけは何もない。ただそこにいるだけです。そこにおられることが尊い。ありがたい。考えてみると死者との関係がそうですね。ぼくも6年前に父を亡くしましたが、その父は何も語らず、何も働きかけてこない。でも一緒にいてくれることがありがたい。父が亡くなるときにも同じことを感じました。最後は意識もなくて、ただ苦しそうに息をするだけの状態でしたが、ここにいてくれるだけでいい、もうしばらくとどまっていてほしいと思ったものです。ただ息をしているだけの父が、この世の何ものよりも大切な、価値あるものに思えました。

 こうした体験をすると人生観が少し変わるようで、人間の本質は役に立たないことなのかもしれないと思ったりします。逆に個人の能力やパフォーマンスなどは些末なことかもしれない。役に立たないけれど、ただそこにいてくれる。そのことに価値を見出す。役に立たないことの意味を知っている。これは人間の大きな特質のような気がします。人は誰でも歳をとって、最後は役に立たないもの、ただそこに転がっているだけの存在になってしまいます。それを社会のお荷物と考えるよりは、経済的な指標では測りがたい、何か深遠な意味を宿した価値ある存在と考えたほうが、老いて死ぬことを明るく肯定的なイメージでとらえることができるように思います。ご夫婦でも長年連れ添っているうちに、お互いに退色や剥落が進みます。そこで「あ~あ、醜くなって」と嘆くよりは、仏像に近づいていると考えるほうが、生きることが楽しくなる。

 唐の高僧・鑑真を開祖とする唐招提寺には、木彫りの古い仏像がたくさん残されています。一説には、東大寺の大仏のために国内の銅を使ってしまい、材料難から木で造るしかなかったそうです。木彫のため、とりわけ経年劣化が進み、顔面などがひび割れた像も多いようです。頭がとれ、両手が欠けた如来立像があります。色はほとんど取れて木地が現れ、全身に縦の干割れが走っている。そこらの廃材置き場に転がっていてもおかしくないような仏像です。それをぼくたちは尊いものとして拝んでいる。

 色が剥落し、身体の一部分がとれた彫像というとミロのヴィーナスが有名です。古代ギリシアで制作された彫刻で、材質は大理石です。ぼくもルーブルで実物を見たことがありますが、やはり美しいものです。しかしその美しさは、仏像に感じるものとは違う気がします。「尊さ」とか「ありがたさ」といった気持ちはあまり喚起されない。写実的ということもあって、どうしても女性を感じさせますし、ぼくたちのほうも美術品、芸術品として審美的に見ている。同じ女性の像でも、ヨーロッパの教会でしばしば見かけるマリア像は、ミロのヴィーナスよりは唐招提寺の破損物に近い気がします。キリスト教徒でなくても、どこか敬虔な気持ちになります。この違いは何に由来するのでしょうか? 

 一つには、像を造った人たちの気持ちが違うのだと思います。仏像やマリア像を、ぼくたちは審美的に見ているわけではありません。少なくともそれだけではない。山中に祀られた名もない仏師の手による石仏の前でも、自然に手を合わせたくなるのは、一心に石を削った人たちの気持ちを同時に見ているからでしょう。その点では、博物館などに飾られている国宝級の仏像と変わりません。さらに教会のマリア像や日本の仏像を見るとき、ぼくたちはマリア像や仏像と重ね合わせて、祈りを捧げる名もなき人たちを見ているのだと思います。

 色の剥落した仏像や身体の一部分が欠けた破損仏を、なぜぼくたちが「尊い」と感じるかというと、一体の像に願いを込めた、また像の前で祈りつづけた、無数の無名の人たちがいるからでしょう。1000年を超える長い時間ありつづけている人々の思いを「尊い」という言葉で言い表しているのだと思います。つまり「尊い」という言葉には、見知らぬ人たちへの共感が込められている。救済を求める切実な気持ち、平穏無事な境涯への願い、そうした人々のひたむきな心情に共感するところに生まれる「尊さ」だと思います。

 福井に友だちがおりまして、今年の春に遊びに行きましたらインドから帰国したばかりということで、ガンジス川のほとりで撮った写真を見せてもらいました。朝から晩までガンジス川の流れを眺めているうちに歳月が過ぎてしまった、という感じの老人などが写っている。思わずうなってしまいましたね。素晴らしいです、そこに写っている一人ひとりの顔が。すぐに日本の仏像を思い浮かべました。雰囲気というか風貌というかたたずまいというか、とてもよく似ています。立派な人はいません。ガンジスのほとりで物乞いをしながら一日暇をつぶしているような人たちですからね。成功者とは呼べないかもしれない。でも、なんとも言えない魅力があります。

 ドストエフスキーの小説にときどきそういう人が出てきます。昼間から酒場で飲んだくれ、娘に小銭をせびるようなどうしようもない父親だけれど、なぜか忘れがたい印象を残す。『罪と罰』にマルメラードフという人が出てきますが、この人は自分がいかにダメな人間であるかを、言葉豊かに延々と語るんですね。それにぼくたちは説得されてしまう。人間のダメな部分というのは、国や民族、人種や宗派を問わずあまり変わりませんからね。また時代が変わっても、あまり変化しない。光源氏なども相当にダメな人で、だから1000年読まれているのだと思います。たんなる高貴なイケメンで、しかも立派な人格者だったら、とても1000年はもたなかったでしょう。

 ダメな部分というのは、裏を返せば「苦悩」ということになると思います。先に名前をあげたマルメラードフも、苦悩を語らせれば超一流というところがあって、そこらの宗教家や哲学者は足元にも及ばないほどの深い洞察を見せることがあります。1000年も昔の人である光源氏にも、多情多恨であるがゆえの苦悩があり、そういうところに共感して、ぼくたちは作品を読むわけです。文学には固有を描くことで普遍に至ろうとするところがあります。苦悩といっても月並みな言葉でなぞられただけの、一般化された苦悩は読者には届きません。強烈な個性をもった人物が抱えている苦悩、彼らが固有に体現し、背負っているものが読者の一人ひとりに届く。「これは自分のことだ」と感じさせる。そう思わせる作品が、長い年月を経て残っていくようです。

 ガンジス川のほとりにたたずむ人たちに話を戻すと、彼らの顔にあらわれた魅力や存在感も、同じところにある気がします。グローバルな視線を向けると、けっして成功者とは言えない。ドストエフスキーの小説の登場人物のようにダメな人たちかもしれません。そんな彼らが、なんとも言えず味わい深い顔をしている。美を超えた美のようなものが、まるで古典的な文学作品のようにぼくたちに届く。皺だらけの老人の顔などにも同じ印象をもつことがあります。境遇は違っていても、確固として「ここにある」という感じが、とてもよく似ている。あるいは死を間近にした人の顔に「美しさ」を見ることがあります。脳性麻痺などの重い障害を抱えた人の顔からも、非常に深い感銘を受けることがある。

 つまり固有ということだと思います。どんな境遇も、その人自身が抱え、背負い、その人なりに生きるしかない。重い病気も障害も、様々なハンディキャップも、さらに言えば老いることも死ぬことも、みんなその人に固有のものです。誰も代わりに生きることはできないし、死ぬことはできない。その人がその人自身を、その人なりに生きるしかない。悩んだり苦しんだり、挫折したり絶望したりしながら。ときどき小さな喜びや、ささやかな幸せを味わいながら。そうした人としての営みに共感し、尊いと感じる心映えを誰もがもっている。だから一人ひとりの固有な苦しみや障害は普遍という場所で開かれるのだと思います。一つひとつ固有性を掘り下げていくと、誰もが無媒介につながってしまう。そこに善なるものがあるように思います。善は本来は匿名のものです。善行は目に見えるけれど、善は見えない。そのことが万人のなかに息づいている善なるものの本質だと思います。

 ここで述べてきたことは、弱者や困窮者への共感ということではありません。みんなが小さなマザー・テレサになろうということではないのです。アマゾンのジェフ・ベゾスでもマイクロソフトのビル・ゲイツでも、あるいはトランプやカルロス・ゴーンでも、一人の人間として生きている以上はそれぞれの悩みや苦しみはあるはずです。だから彼らは彼らのままで、マザー・テレサと無媒介につながっています。70億の人類の一人ひとりの固有が、普遍という場所でつながっている。そこが可能性だと思うのです。

 暮らし向きに余裕のある者が弱者や困窮者に共感する、思いを寄せて手を差し伸べるというのは、すでにあることです。様々な場面で実際にやられています。それで立ち行かなくなっているのが、現在の世界だと思います。ドイツのメルケル首相が退任せざるを得なくなっているのも、イギリスが経済的な利益を捨ててEUを離脱しようとしているのも同じことでしょう。トランプのアメリカのように、各国がなりふり構わずに国を閉じようとしている。どの国の政権担当者も、言い方は多少違っていても自国第一主義を掲げないと延命できない状況になっている。

 近代の人権思想に基づいた社会保障や社会福祉は、国家の枠内でしか機能しえないものです。新自由主義の下でグローバル化が進んで国が開かれていくと、これまでのような政策は立ち行かなくなる。だから各国ともガードを固くして自国の利益を守ろうとしているのでしょう。しかしテクノロジーの進歩は止まりません。この先も国境は消え、様々なかたちで国は開かれていくはずです。国家も政府もさらに存在感を失っていくと思います。

 別のやり方が必要です。人間のなかの善なるものに光をあて、うまく取り出すことができれば、長者番付の上位数十人と37億の貧困層が互いに共感し、無条件につながる世界を構想することができるはずです。ぼくは自分の言葉で、それをやりたいと思っています。(2018年12月15日)