フィクションの可能性

 いつの時代にも、その時代に固有の「自然」がある。ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』によると、紀元前1776年ごろに制定されたハンムラビ法典では、人は生まれながらに三つの階級(上層自由人、一般自由人、奴隷)に分けられていた。それぞれの性と階級の成員の価値はみな異なり、女性の一般自由人の命は銀30シェンケル(シェンケルは古代バビロニアの重さの単位)、女奴隷の命は銀20シェンケルに相当するのにたいして、男性の一般自由人の目は銀60シェンケルの価値をもった。
 私たちの感覚からすると奇怪な考え方だが、こうした「差別」が神々によって定められた、普遍的で永遠の正義に根ざしたものであると法典は主張する。当時のバビロンは世界最大の都市であり、バビロニア帝国は世界最大の帝国で、臣民の数は100万を超えた。ハンムラビが亡くなって彼の帝国が廃墟と化したあとも、古代メソポタミアのエリート知識人やエリート官僚は、この文書を神聖視し、社会秩序の理想を体現したものと考えた。
 それから3500年後、北アメリカにあった13のイギリス植民地の住人たちにとっての自然は、これとはまったく異なるものだった。1776年のアメリカ独立宣言では、「万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる」ことが謳われている。つまりアメリカ人にとって、「すべての人は平等である」ことが普遍的で永遠の正義の原理をなしている。
 二つの自然は対立し、矛盾している。アメリカ人によれば、すべての人は平等である。一方、ハンムラビ法典の世界を生きるバビロニア人にとって、人々は明らかに同等ではない。言うまでもなく、私たちは「アメリカ人」である。独立宣言で謳われている原理を「自然」として、自由も平等も空気みたいに当たり前のものと思って生きている。しかし近代のヒューマニズム思想が生まれるまで、人間の長い歴史において、自由などというものは極端に言えば王一人が享受しうるものであり、一般の衆生には自由もなければ生存権などというものもなかった。大多数の民は地面にへばりついて奴隷のように生き、畜生や虫けら同然に死んでいく。それが普通であり自然だった。
 古い自然は駆逐され、新しい自然に取って代わられる。そうやって人間の歴史は更新されていく。新しい自然を生きる私たちの目に、ハンムラビ法典の自然は迷蒙なものと映る。すべての人は平等であるという、アメリカ独立宣言に謳われた自然を開明的であると信じて疑わない。しかしユヴァルは、私たちの良識を逆撫でするようなことを言う。

私たちにとって、「上層自由人」と「一般自由人」という人々の分割が想像の産物であることを受け容れるのはたやすい。とはいえ、あらゆる人間が平等であるという考え方も、やはり神話だ。いったいどういう意味合いにおいて、あらゆる人間は互いに同等なのだろう? 人間の想像の中を除けば、いったいどこに、私たちが真に平等であるという客観的現実がわずかでもあるだろうか?(柴田裕之訳)

 人を生まれながらにランク付けするハンムラビ法典の考え方が想像の産物なら、人間は平等であるというアメリカ独立宣言の考え方も、やはり想像の産物だとユヴァルは言う。生物学な進化の過程にあるヒトが、「平等」でなどあるわけがない。進化は平等ではなく差異に基づいている。誰もが少しずつ異なる遺伝子を持っており、誕生の瞬間から異なる環境の影響に晒されている。したがって科学的に考えれば、「万人は平等に造られている」ではなく、「万人は異なった形で進化している」ことになる。
 つまり平等という客観的現実があるわけではなく、「平等」という想像的現実があるに過ぎない。「人間は平等である」という考え方は、われわれの想像の産物であり、創作であり、フィクションである。なるほど。ユヴァルの主張は明快だ。

 ユヴァルも指摘しているように、「平等」という考え方はキリスト教に由来する。キリスト教は、誰もが神によって造られた魂を持っており、あらゆる魂は神の前で平等であるとする。その教理は一つの神話、『聖書』という一綴りのフィクションに依拠している。キリスト教が2000年つづいたのは、司教や聖職者だけではなく、多くの人々が『聖書』という一冊の書物の上に織り上げられたフィクションを信じたからであり、アメリカの民主主義が曲がりなりにも250年つづいたのは、アメリカ人の多くが自由や平等、あるいは人権というフィクションを信じたからである。
 なぜ、これらのフィクションは広く受け入れられたのだろう。どうしてバビロニア人のフィクションを駆逐して、より広範に普及しえたのだろう。それはキリスト教のフィクションのほうが大衆性をもっていたからである。人は生まれながらに三つの階級のどれかに帰属するというハンムラビ法典は、たとえば上層自由人には都合が良くても、一般自由人にとっては不服なものだっただろう。まして奴隷にとっては、到底受け入れられるものではない。これにたいして、人間は神の下に平等であるというキリスト教のフィクションは、とりわけ社会的に下層の人たち、虐げられた人たちにたいして強い吸引力をもったに違いない。
 そして支配者たちも、このフィクションはなかなか使い勝手がよいと認識した。多くの人が一つのフィクションを信じているということは、それらの人々を一つにまとめ、大規模な協力体制を構築しうることを意味している。膨大な数の見知らぬ人たちが、お互いを「兄弟」や「友人」とみなして、自分たちが属する神話圏の共通の利益のために、軍事を含む様々な場面で首尾よく協力できる。こうしてローマ帝国のような強大な帝国が生まれることになった。
 しかしキリスト教の「兄弟関係」が、人類全体に及ぶ普遍的なものでなかったことは言うまでもない。自分たちが信じる神話圏においてのみ、彼らは「兄弟」や「友人」であり、それ以外は良くて無視、悪くすると現在のテロリストと同じように排除や殲滅の対象となった。

慎み深さ、不屈の精神、規律、勤勉、危険な航海、そして戦闘は、われわれの真の王であり、主である、絶対無敵の神聖ローマ帝国皇帝の家臣であるスペイン人のものであり、信仰のある者には喜びを、異教徒には恐怖をあたえるものである。主の栄光と、皇帝閣下に仕える栄光のため、この物語を書きとめ、陛下に送り、ここで起こっていることをお伝えしたい。主の聖なるお導きによって、多くの異教徒を征服しカトリックへの忠誠を誓わせたことは神の栄光であり、皇帝陛下の偉大な力と強運によって、陛下の御代にこれがなせたことはひとえに陛下の名誉である。(ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』倉骨彰訳)

 インカ帝国を征服し、多くの地域住民を殺害したピサロたちの言い分である。私たちから見ると非道であり、悪逆であり、蒙昧である。だが当時のスペイン人にとっては、これが正義であり真理であった。こうして見ると、ハンムラビ法典に象徴されるバビロニア人の自然も、『聖書』をよりどころとするキリスト教徒の自然も、どっちもどっちという気がしてくる。古い自然が新しい自然によって駆逐されていく。たしかにそうかもしれない。かといって、新しい自然が古い自然よりも上等なもの、善なるものというわけでもなさそうだ。
 ではなぜ、古い自然は新しい自然によって駆逐されるのか。考えられる理由は一つしかない。新しい自然のほうが古い自然よりも、より広範な人々によって信じられるフィクションを生み出しえたからである。善なるものへ向かって、各時代の自然が更新されていくわけではない。たんにより多くの信者を得たフィクションが、古い自然を駆逐して新しい自然の地位に就く。それが一万年ほどのスケールで見た人間の歴史であったと言える。

 私たちはいま、「万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる」というアメリカ独立宣言の文言が、ほとんど空手形のようになった現実を生きている。言い換えれば、近代ヒューマニズムというフィクションを信じられなくなっている。このフィクションの下での協力体制を維持できない、と多くの人たちが感じている。それの現れがイギリスのEU離脱であり、トランプ現象だろう。
 近代ヒューマニズムの現実的な履行形態は、言うまでもなく民主主義である。「神の下の平等」というキリスト教のフィクションを、民主主義は「法の下の平等」と読み替えることで、より汎用性をもたせようとした。これが行き詰まっている。なぜ行き詰まっているのか?
 そもそも民主主義とは、ヨーロッパという特殊な地域においてのみ運用可能な、一つのローカルなシステムだったのではないだろうか。この特殊性のなかには、ヨーロッパが地球上のほぼすべての地域を植民地化したこと、そのため労働力も資源も、ほとんどタダ同然で手に入れることができたということが含まれている。アメリカの場合は先住民と黒人奴隷が、アメリカ的な民主主義の条件を提供した。こうした不正なアドバンテージの下に運用可能であったシステムを、グローバルに運用しようとしたところに、現在の民主主義の破綻の要因があるように思う。
 しかもコンピュータやインターネットなど、いわゆる情報技術(IT)の指数関数的な進歩によって、グローバル化は誰も予想できなかったほど急速に、激烈に進行した。それにたいする反動がブレグジットでありトランプ現象だろう。安倍のカルト政権も同じ流れのなかにある。いずれもナショナリズムや保護貿易主義を復活させ、自国だけのより小さなフィクションを再構築しようとしているところに共通性がある。
 こうした現象は一時的なものに終わるだろう。たとえば日本の若者が、愛国主義や教育勅語といった古臭いフィクションに魅力を感じるとは思えない。そんなものよりも、アップルやグーグルやアマゾンなどのグローバル企業が提供するフィクションを支持し、信奉することは明らかである。つまり趨勢は確定しているのだ。個々の国民国家はグローバル化の波に呑み込まれていくだろう。その最後のあがきを、トランプ現象や安倍のカルト政権に見ていると考えたほうがいい。

 自由、平等、人権、あるいは友愛という、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に謳われた麗しきフィクションは衰滅のときを迎えている。近代ヒューマニズムという200年余りつづいた自然は、コンピュータ・サイエンスと結びついたグローバリゼーションという新しい自然によって駆逐され、ハンムラビ法典と同様に古い自然の場所へ送り込まれようとしている。
 では、私たちがすでに生きはじめている新しい自然を支えているフィクションとは、どのようなものだろう。一言で明快に言える。すなわち「貨幣」と。貨幣こそが目下のところ最強のフィクションであり、もっとも広範に信じられている神話である。そして貨幣によって駆動する資本主義というシステムは、最大の世界宗教である。なぜ最強にして最大なのか? 地球上の老若男女、すべてがこのフィクションに帰属できるからである。誰も排除しない。万人を分け隔てなく受け入れる。貨幣こそ全人類が信じることができるフィクションである。よって資本主義という神話に全世界が帰依することになる。
 ところで貨幣とはフィクションなのだろうか。想像の産物なのだろうか。ユヴァルは「共同主観的現実」という言い方をしている。あるいは「物質的現実」ではなく「心理的概念」であると。現に過去の歴史において、様々な時代に様々な場所で生み出された貨幣は、石や貝殻や金属など、様々な物質を素材としていた。つまり貨幣の価値はほとんど物質には依存していない。紙幣を使うことは、私たちを辛うじて紙という物質的現実につなぎとめておいてくれる。ところが電子マネーの場合は要するにデータであり、もはや貨幣は物質でさえない。ユヴァルによると、2006年に全世界の貨幣は合計約473兆ドルだったが、硬貨と紙幣の総額は47兆ドルに満たない。9割以上の貨幣は、コンピュータのサーバー上にだけ存在したことになる。
 なぜ、こんなことが可能なのだろう。それは人々が貨幣というフィクションを信じているからである。全人類が貨幣という想像上の産物、共同的に創作された神話を信じているから、グローバル経済という地球規模の相互信頼の制度は維持されている。この信頼関係は個人の主観を超える。好きでも嫌いでも、憎んでいても軽蔑していても、貨幣を介すことによって相互の信頼関係を築くことができる。宗教的信仰にかんして同意できないキリスト教徒とイスラム教徒も、貨幣にたいする信頼という点では同意できる。

哲学者や思想家や預言者たちは何千年にもわたって、貨幣に汚名を着せ、お金のことを諸悪の根源と呼んできた。それは当たっているのかもしれないが、貨幣は人類の寛容性の極みでもある。貨幣は言語や国家の法律、文化の規準、宗教的信仰、社会習慣よりも心が広い。貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の問の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ。貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できる。(ユヴァル、前掲書)

 貨幣という世界宗教の下で、新たな自由と平等が定義される。すなわち「貨幣を獲得することと使用することにおいて、全人類は自由であり平等である」と。この21世紀の自由と平等が、すさまじい富の偏在と格差を産みつつあることは言うまでもない。富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる。最新の報告では、世界でもっとも豊かな8人が、世界の貧しい半分の36億人に匹敵する資産を所有しているという。(2017年1月16日、オックスファム)
 このことが世界各地で軋轢や衝突を引き起こしている。各国首脳は知恵を絞ってなんとかしようとするが、紛争や戦乱、テロが終息しそうな気配はまったくない。グローバル経済のなかで、国も人も疲弊している。だからといって貨幣を棄教し、新しい自然を作り出そうという動きは見られない。むしろ大半の人は、ますます貨幣への帰依と帰属を強めようとしている。なぜなのか? それ以外に信じるものがないからだ。信じるに足るものが見当たらないからだ。貨幣を超えるフィクションが存在しないからだ。
 だったら簡単なことだ。貨幣よりももっと人を惹きつける、魅力的なフィクションを作ればいい。誰もが夢中になるような物語を創作すればいい。少なくとも『聖書』の物語は2000年近く多くの人々を酔わせた。一つのフィクションに依拠したキリスト教の物語は、ヒューマニズムと民主主義に変奏されて、近代という時代をここまで牽引してきた。貨幣と資本主義をめぐる狂騒も、その圏内にあると言える。やがて狂騒はおさまり、世界は起伏のない冷たい時代に入るだろう。それは適者生存の原理によって構築された秩序を、人々が新しい自然として受け入れ、生きるようになる世界である。そのとき抵抗や反抗の物語は終わり、誰もがあるがままの現実そのものになる。
 もっと別の未来を構想できないだろうか。もちろんできる。私たち一人ひとりが未来を構想することができる。構想し、想像することは、すなわち現実を変えることである。身も蓋もないことを平然として言い放つユヴァルも、「適切な条件下では、神話はあっという間に現実を変えることができる」と言っている。なるほど、彼が言うくらいだから、それは身も蓋もない事実なのだろう。ここは何度でも強調しておこう。神話が現実を変えるのである。しかも「あっという間」に。神話とはフィクションであり、構想され、創作されるものである。
 なぜ未来を諦めるのか。現実は変わらないと思い決めてしまうのか。「想像上の現実は嘘とは違い、誰もがその存在を信じているもので、その共有信念が存続する限り、その想像上の現実は社会の中で力を振るい続ける。」たしかにそうではないか。現に貨幣が、そのようなものでありつづけている。問題は、貨幣を超える「想像上の現実」を、私たちが創造できていないことにある。ただそのことに尽きる。
 誰もが「いいな」と思う、新しいフィクションを作ろうではないか。貨幣がいいものとは、大半の人は思っていない。便利だから使っている。仕方がないから獲得と運用に精を出している。生きることの余儀なさとして、貨幣をめぐる神話に帰依している。本当は、もっと他のことをやりたいはずなのである。私たちは貨幣に振りまわされるために、この世に生まれてきたわけではない。
 貨幣とは別の物語を作ってしまえばいい。物語を語ること、しかも巧みに語ること。70億の人類が「いいな」と思う物語、全人類が心から信じたくなる物語を、私たちが創作し、創造しようではないか。そのことで瞬時にして現実は変わる。この行き詰まった世界は、広々としたところへ出て行くことができる。(2017.4.3)