ぼく自身のための広告(9)

9 執筆中

 いま書いている小説の原稿。適当なところでプリントアウトして赤のボールペンで手を入れる。これは一回目。だからページ全体が真っ赤。少し先へ進んだところで、また最初から手を入れる。そんなことを何度も繰り返す。一年中ほぼ毎日。とりあえず飽きない。下手をすると一生つづけるかもしれない。
 パソコン画面のフォーマットは1ページに400字詰め原稿用紙が3枚。これが一日のおおよそのノルマ。気分が乗らないときも仕事だと思ってこなすようにしている。調子のいいときは2ページくらい進むこともある。そのあたりで油が尽きたように言葉が出てこなくなる。潮時である。潔く切り上げる。
 毎日コツコツが、小説を書くコツ。一日、二日とあいだがあくと、それだけ作品のなかへ入っていくのに手間取るようになる。調子を取り戻すまでに時間がかかる。旅行などでやむなく中断するときは、きりのいいところまで書いておく。そうしないと現場復帰が大変だ。
 小説を書くことの面白さは登場人物にあると思う。物語がうまく運んでいるときは、毎朝会いに行くのが楽しみだ。難渋しているときは会うのが億劫。でも親の介護みたいなものだと思って、がんばって出かける。しばらく一緒に過ごすうちに、やっぱり会いに来てよかったと思う。
 どうしたら小説家になれますか、と若い人からときどきそんな質問を受ける。正直言ってぼくにもわからない。どうしてこんなことになっているか、本人にもわかっていないからだ。高校生のときは好きな人と結婚して楽しい家庭を築き、良き夫になるのが夢だった。大学に入ったときには植物学者になろうと思っていた。アカデミズムの世界に身を置いて学研生活を送るという思いは、大学四年間もちつづけていた気がする。何が悪かったのかわからないけれど、現実にはそうならなかった。学習塾などでアルバイトをしながら、いろんなものを書いているうちに、気が付くとこんなことになっていたのである。
 自分には才能がない、と本心から思っているけれど、口にすると謙遜や嫌味ととられることもあるのであまり言わない。才能の有無は、実際に書いてみないとわからない。また当人にしかわからないと思っている。40年近く小説を書いてきて、つくづく自分には才能がないなあと感じる。絶望しているわけでも悲観しているわけでもない。むしろ才能のある人の作品を読んで、「うまいなあ」とか、「あんなふうには書けないなあ」と素直に思えるようになった。昔よりも風通しがいい。歳をとるといいことがたくさんある。
 若い人には、才能のなさを自覚するのはいいことだと言いたい。でもこの自覚へ至るには、それぞれのロング・アンド・ワインディング・ロードを歩いてくる必要がある。ところで才能って、それほど重要なものなのだろうか。第三者はともかく、当人にとって……ぼくにはどうもそうは思えない。
 作品を生み出す苦しみと喜びは、才能の有無にかかわらず変わらないはずだ。モーツァルトにしても、曲を書くことの苦悩がなかったとは思えない。自分と齟齬を来すことなく、あれらの作品が生まれたとは考えられない。そうでなければ、たとえば40番のシンフォニーが、陰影に富んだ曲想から立ち上る深い悲しみや寂しさで、ぼくたちの心を打つことはないだろう。易々書けたように見えることと、実際に易々書けることとはまったく別なのだ。
 どんな天才たちも、自分とのあいだに齟齬を来す。そこから芸術と呼ばれるものは生まれてくる。人間のなす表現とはそのようなものだと思う。AIは自分とも他人とも齟齬を来さない。常にA=Aである。だからレンブラントよりもレンブラントらしい絵や、バッハよりもバッハらしい音楽を創作することは可能だろう。だが、それらはあくまでAIの作品であり、レンブラントともバッハともまったく違ったものであるはずだ。この違いがわからなければ、いったいぼくたちはなんのために絵を見たり、音楽を聴いたりしているのだろう?
 レンブラントがレンブラントと齟齬を来たし、バッハがバッハと齟齬を来たし、そこから生まれてきたものが、他ならぬ彼らの作品なのである。つまり一枚のレンブラントが、一曲のバッハが、A≠Aから生まれてきている。
 そこで汚らしい赤の入ったぼくの原稿に戻る。レンブラントやバッハと並べるのはおこがましいけれど、ぼくも自分と齟齬を来している。それがプリントアウトした原稿に残るおびただしい赤ではないだろうか。これはぼくがぼく自身に漸近していく過程、いわばA=Aへ至ろうとする痕跡なのである。
 しかし書くことも含め、あらゆる表現は永遠にA=Aに到達しない。だからこそ、つぎあるのだ。表現する者としては、誰もが同一性への途上にある。死が同一性の宿命であるとすれば、表現において人は「不死」であるとも言える。
 さあ、つづきを書こう。400字詰め原稿用紙で3枚。今日も明日も明後日も……。


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