ぼく自身のための広告(5)

5 本棚……③

 机に向かうと、この本棚を背にする格好になる。家を建てたときに造作家具として備えてもらった。できるだけたくさん収納できるものを、とお願いしたけれど、すぐにいっぱいになっちゃうんだな。棚板を調整することで上下幅を変えられるので、文庫本と新書が二重、三重にして詰め込んである。例によって、奥に何があるのか記憶が定かではなくなっている。
 この機会に確かめてみたら、新書サイズの谷崎源氏、芥川龍之介の小説集、夏目漱石全集、ちくま文庫版の柳田國男全集、太宰治全集、ちくま学芸文庫のニーチェ全集、フーコー・コレクション、空海コレクション、森有正エッセー集成、河出文庫の須賀敦子全集などがあった。さらに文庫版のマルクス、エンゲルス、ヘーゲル、中央公論社から出ていた『世界の名著』、講談社学術文庫、三大和歌集、芭蕉、蕪村、一茶の句集など。
 椅子をまわすと手に取ることのできるので、頻繁に活用する本はここに置いてある。まず大学の講義に使う参考書の類、さらにシモーヌ・ヴェイユ、エマニュエル・レヴィナス、石田瑞麿の現代語訳による親鸞全集、白川静といった贔屓の哲学者や思想家たちの本が並ぶ。本棚の上には、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』、大橋力『音と文明』といった、最近衝撃を受けた本が。ロジャー・ペンローズなどの数学者や物理学者の著作、コンピュータやゲノム編集、生命科学や脳科学といった自然科学、テクノロジー関係の本もこのあたりに集めてある。
 学生のころから、本のページの後ろに購入した年月日を記す習慣がある。たとえば岩波文庫の『資本論』には「1977.10.21」という日付が入っている。ぼくは大学一年、教養課程の後期がはじまったばかりだ。ページを開くと、黒や青や緑のボールペン、赤の色鉛筆で汚らしく線が引いてあり、生意気な書き込みが散見される。こういう悪あがきをするのは、書かれている内容がよく理解できないからで、線を引きまくり、書き込みをすることでわかった気になろうとしたことは明白である。そんな健気な18歳の自分をほめてあげたい。
 1977年10月といえば、大学に入学して半年ほどだ。前にも書いたように、ぼくが入学したのは農学部、将来は植物学を専攻して、できれば研究者になり、九州の山々を歩いてフィールド調査をしたいと考える、エコロジカルな心根のいい青年だった。それが半年で、『資本論』に激しく書き込みをする正体不明の学生になっている。何があったのだろう?
 よくわからないけれど、植物や自然から人間に興味が移っていることは間違いない。夏目漱石にはじまり、大江健三郎や小田実など同時代の文学を読みはじめたことも大きかっただろう。小田実は終生そうだったけど、当時は大江さんも「社会参加、実践、アンガージュマン」とさかんに言っていた。野間宏などもまだ元気だったしね。そんなこんな時代の空気を吸って、そうか、これは山のなかで呑気に植物採集などやっている場合ではない、世界は不正義や矛盾に満ちている、自分も第三世界や被差別部落や在日朝鮮人の問題を考えなくちゃいかん、と思ってしまったわけなのだ、根が純朴だから。
 わかった。それならマルクスをやろうじゃないか、と誰に教えられたのかわからないけれど、18歳の秋に思ったらしい。資本主義の黎明期、いちばん虐げられていたのはロンドンの工場労働者たちだった。本源的蓄積のところで彼は書いている。「資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」
 おお! かっこいいぞ、マルクス! 根が純朴なだけに、過剰に反応してしまったようだ。いまから思うと、「君たちはどう生きるか」という青少年普遍の問題に、ぼくもやはり突き当たっていたらしい。その答えをマルクスから引き出そうとしたのだろう。
 あれから40年余、18歳の青年は59歳のおっさんになった。でも考えていることは、ずっと途切れずにつづいている気がする。本棚に並んでいる本を見て、あらためてそう思った。