ぼく自身のための広告(3)

3 本棚……①

 今日はぼくの本棚をお見せしよう。机に坐って右手に、同じ本棚を三つ並べ、倒れてこないように金具で壁に固定してある。この本棚には自分のなかで評価の定まった人たちのものが集めてある。そのため全集や著作集など、まとまったものが多い。大半は処分することなく、これからも手元に置きつづけるだろう。
 写真に写っているのは、向かって左側の二つ。左が日本文学、右が外国文学というふうになっている。日本のものでは武田泰淳、宮沢賢治、埴谷雄高、小林秀雄、森有正などの全集や著作集が並んでいる。古井由吉の作品もほとんど揃っている。奥には大江健三郎、開高健、中上健次といったところが入っているが、もう読み返すことはないかもしれないなあ。
 海外のものではモーリス・ブランショ、バタイユ、プルースト、カフカといったところ主なラインナップ。ミラン・クンデラの作品もほとんどあるはずだ。ボルヘス、マルケスといったラテンアメリカ文学も多い。あとはジョイスの『ユリシーズ』やナボコフの短編集、ル・クレジオ、リチャード・パワーズなどの背表紙が見えている。
 バタイユの著作集は、学生時代にレコードを段ボール箱に一つか二つ売って買ったもの。井上究一郎・淀野隆三訳のプルーストも、レコードを処分して購ったように思う。ラテンアメリカ文学も、お金をためては少しずつ買い揃えていった。そういう本は、なかなか処分する気になれない。結婚してからも、子どもが生まれたのちも、ずっと貧乏だったけれど、本とレコードは買いつづけた。だから気分的には全然貧乏ではなかった。だってドストエフスキーを読んで、モーツァルトやマーラーを聴いているんだからね。本とレコードに感謝である。
 本棚の上も、天井まで本で埋まっている。このあたりはかなりいい加減で、辻邦夫、須賀敦子、武満徹、飯島耕一、岡本太郎、フロイト著作集、ロレンスの書簡集などが行き場を失って集められている。前列の本で見えないけれど、『源氏物語』の原文と現代語訳、永井荷風、泉鏡花、井伏鱒二の作品集なども隠れている。どの本棚も前後二列に詰め込んであるので、後ろにどんなものが入っているのか、たまに前の本を動かさないと忘れてしまう。すでに持っているものを、間違ってまた買ってしまうこともある。レコードを売っていた時代には考えられないことだ。お金は人を堕落させるのかもしれない。
 ぼくの場合、本を読むのは仕事の一部だけれど、小説などの文章を書くことを「仕事」と思ったことはないので、自分のなかで読書をどう位置づければいいのか、いまだによくわからない。読書のための読書、娯楽や愉悦としての読書という感覚はほとんどない。そのとき書いているものとの関連で、必要に迫られて読んでいるという感じが強い。いい歳をして、あいかわらず余裕がない。むしろ若いころのほうが、時間を贅沢に使っていた気もする。
 プルーストの『失われた時を求めて』などは、いまは4種類くらい翻訳が出ているので、じっくり違いを味わいながら読みたいものだと思うが、そのための時間を捻出することができない。夜、一時間くらいはリビングで音楽を聴きながら本を読む。ぼくにとっては、いちばん読書らしい読書と言えるかもしれない。でも、そんなときに読むものは音楽や絵画についての批評やエッセイ、お酒や猫をめぐる軽い読み物、旅の本だったりする。小説を書いていながら、小説を読むのはあまり好きじゃないのかもしれない、と思うことがある。自分が生きているこの世界に強い愛着があって、フィクションの世界を逍遥する必要を感じないのかもしれない。