なお、この星の上に(46)

 明るい場所を歩いていた。ものも思えず、心が身に添わない状態で、ただ歩いていた。誰かによってどこかへ運ばれている心地がした。自分の意志で歩いているという感覚が戻ってこない。あの青白く光る草原で消えてしまったのかもしれない、と健太郎は思った。隊列をなして進軍する兵士たちとともに。どこにあるとも知れない高原の草のなかに魂を置き忘れてきたような気分だった。
 いつのまにか墓地に来ていた。すでに冬枯れの兆しを見せはじめた草のなかに幾つもの墓が建っている。古いものもあれば新しいものもある。健太郎の家の墓もここにあるが、これまで身内の死には立ち会ったことがないので、葬られた死者たちのことはよく知らない。墓と墓のあいだには区画もなくて、芒やチガヤのような雑草が生えている。日当たりのいい場所を選んで腰を下ろした。無意識に墓の数をかぞえていた。指差すようにしてかぞえている自分に気づき、それが何か縁起の悪いことにも思われて目を逸らせた。
 墓地の前の斜面を下ったところに農具小屋が見えた。主に農機具や藁などを収納しておくためのもので、野良仕事に合間に腹ごしらえをしたり休んだりするのにも使われる。藁葺き屋根の古いものだった。乾いた秋の景色が広がっていた。午後の日差しのなかにいるのに暖かさを感じなかった。一人きりであることを恐ろしいほどに感じた。自分が自分であることは空っぽで、この身と心をもって生きることは寒々しい、といった剥き出しの感覚のなかにいた。
 ぼんやりしているうちに時間が過ぎた。空を見上げると、そこには澄んだ青があった。一羽の鳥が上空の高いところを舞っている。あいつは一羽でいても、自分を弱いとも頼りないとも思わないだろう。人間だけが一人を弱いものに、自分を頼りないものに感じる。一人でいることに孤独や空虚をおぼえる。もともと人間は一人で生きるようにできていないのかもしれない。動物たちに比べて不完全な生き物だ。
 風が草の葉を小さく揺らして吹いていった。誰かが歌をうたっている。人の声かどうかわからない。木々のざわめきのようでもあり、山の谺のようでもあった。何かがやって来る。心の闇と沈黙を抜けて近づいてくる。静かに明るいものが、小屋の前の道を通ってこっちへやって来る。世界が彼の心に触れようとしている。そして心は頷きたがっている。やがて何かを見つけたと思った。落し物を見つけたような、ずっと昔に失くしたものが遺失物係から届けられたような、不思議な気分だった。
 清美は彼に気づいて足を止め、
「なんやの」と咎めるように言った。「健太郎、なんでここにおるん」
「おったらいけんか」鷹揚に返した。
「ここはうちの秘密の場所じゃよ」
 まるで自分だけの場所だと言いたげだった。
「墓場がおまえの秘密の場所か」
 それには答えずに、
「こんなところでなにしよるん」とたずねた。
「秘密じゃ」健太郎は相手の言葉をそのまま返した。
 草原に風が起こり、一人の少年が駆けていく。美しい馬を追いかけて。その少年は世界を一周りしてここにたどり着いた。
「墓参りに来たんか」あらためてたずねた。
「違う」からかわれたと思ったのか、清美は怒ったように答えた。
 ちょっとためらってから健太郎の横に並んで腰を下ろした。
「考えごと」やがて彼女は自分から明かした。「考えごとをするとき、うちはここへ来ることにしとる」
「墓場で考えごとか」
「いけんか」
「いけんことはないが」健太郎は相手の横顔をちらりと見て、「墓場でどんな考えごとをするのかの」と不思議そうにたずねた。
「いろいろ」
「そのいろいろが聞きたいやけどな」
「教えん」
 見晴らしのいい場所だった。このあたりは起伏の緩やかな広い谷になっていて、前方に冬支度を終えた田んぼが広がっている。田んぼのなかに林が点在し、木々のあいだから農家の建物が屋根だけが見えていた。谷のなかほどを川が流れ、谷全体が山に抱かれる恰好になっている。
「健太郎」と清美が名前を呼んだ。
 彼は振り向いた。
「最近、なんやらぼおっとしとるね」大人びた口調で言った。
「いらん世話じゃ」
 草は秋の日差しを浴びて暖かかった。近くの雑木林が色づきはじめている。緑が薄くなり、赤や黄や茶色の葉が重なり合って秋の日差しを浴びている。ここは居心地のいい場所だ、と健太郎は思った。なぜだろう。清美と二人でいると、いつもそこは居心地のいい場所になる。
「将来のことはきまったか」彼女はふと思いついたようにたずねた。
「将来?」
「迷うとったやろ、進学するか就職するか」
「猟師にでもなろうかの」少し思案するように間を置いて健太郎は言った。「わしも武雄みたいに」
 清美は本気にしない様子で、
「新吾の兄ちゃんのとこにおるんやろ」と気がかりな様子で武雄のことに言葉を向けた。
「もう学校には出てこんかもしれんな」健太郎は思いつきを口にした。
「そういうわけにはいかんよ。中学は義務教育やけん」清美は四角四面に言った。
「武雄には通じん理屈だの」
 彼女は困惑したように口を噤んで、
「卒業できるやろうか」と表情を曇らせたままたずねた。
「まあ、わしらが心配せんでも、栗山がなんとかするやろう」健太郎はわざと気楽な口調で答えた。
 右手の涸れ谷の影が深くなっていた。日が傾くと、急速に寒気がやって来る。だが二人がいる場所に落ちる日差しは暖かい琥珀色だった。遅い午後の光には、なお不思議な力が満ちている。
「最近、いろんなことがつまらんな」しばらくして清美が言った。「健太郎はそんな気がせんか」
「いつごろからつまらんなったんかの」答えるかわりにたずねた。
「いつごろからやろうね」彼女はわずかに下顎を持ち上げるようにして、「学校も家も、自分が住んどるとこも、なんやら面白ない」と並べ上げた。
 乾いた草の匂いのなかに、彼女の息遣いが聞こえると健太郎は思った。
「小学校のときにうち、鉱山で働く人らの前で作文を読んだことがあったやろう」清美は昔の思い出を手繰った。
「ああ、おぼえとる」上の空に答えた。
「あのときは、こんなふうになるとは思わんかった」
「こんなふうとは、どんなふうか」
「もうちっと面白かった気がする。毎日いろんなことが起こって面白かった気がする」
「いまもいろんなことが起こりよる」
「たいていつまらんことじゃよ」いくらか拗ねた口ぶりで言った。「つまらんことばっかり起こりよる」
 健太郎は小学生のころの清美をおぼえていた。いまでもときどき、そのころの面影を追っている気がする。現在の彼女の上に、もう一つ半透明な小学生のころの彼女が重ね合わされていて、たまに上下が入れ替わる。だが、いま彼が見ているのは現在の清美だった。すっかり大人びて、戸惑いをおぼえるほど綺麗になった一人の女性だった。戸惑いは悲しみに調べを転じ、悲しみは切ないほどの愛しさと溶け合っていた。
「清美」と名前を呼んだ。
「なんよ、あらたまって」
 清美は不思議そうに彼を見た。健太郎は自分が何を言おうとしていたのかわからなくなった。
「おまえは田んぼの稲みたいに成長が早いな」
 彼女は透明な目で健太郎を見た。彼が言ったことを恥ずかしがっているようでもあり、当惑しているようでも、持て余しているようでもあった。やがて眉のあいだに皺を寄せ、
「またおかしなことを言うて。いつもそうやってうちをからかうんやね」とそっぽを向いた。
 健太郎は何気なく近くの雑木林に目をやった。そこには先ほどまで見えなかったものが見えた。真っ赤に色づいているのはハゼやウルシの仲間だろう。茶色っぽいのはクヌギだ。クヌギは短いあいだだけ美しい黄色になる。それからすぐに茶色になる。ツタが赤く色づいている。カラスウリの実が赤く輝いている。ガガイモの実が裂けて、なかからタンポポのような白い綿毛をもつ種子が飛び出している。いま見ているものが、すでにどれも懐かしかった。
「健太郎」
 振り向くと彼女の眼差しがあった。そこには大きくて暖かい感情がこもっていた。
「またぼおっとしとる」
 彼女の瞳の奥で何かが輝いていた。その輝きに触れたいと思った。輝きと一つになりたかった。彼女の瞳に映っているのは草原だった。その草原が健太郎のなかにも広がって、暗い森を覆っていく気がした。
 何かを察知したように突然、清美は立ち上がった。彼は引き止めなかった。むしろほっとした。彼女がいなくなったあと、あたりの風景は急に物悲しくなった。一瞬にして秋が深まったような気がした。やがて草の上に白い霜の降りる季節がやって来るだろう。そのときまた二人でここに来たいと思った。何度も繰り返し帰ってきたいと思った。
(イラスト RIN)