なお、この星の上に(45)

 どうしてバラバラなのだろう。なぜ人と人は引き裂かれるのだろう。誰かが悪意をもって引き裂いたわけではない。しかし親密であるはずの者同士が、身も心も離れ離れになっている。山を流れる水が深い谷を穿っていくように、渡ることのできない深い隔たりが生じている。時代が引き裂いたのだろうか、父と自分のあいだを。科学の進歩が引き裂いたのだろうか、新しい暮らしと古い暮らしを。いつも引き裂かれている。親と子が、自分と他人が、自分と自分が。その空隙に森が広がる。深くて暗い森が広がっていく。
 方角があやしくなっていた。遠近もおかしい。避病院からそれほど歩いた記憶はない。遠くはないはずだと頭でわかっていても、やはり遠い気がする。いま歩いている場所がどこなのかわからない。この先は漠として、ますますわからなくなっていく気がする。とてもたどり着けない。たどり着けそうにない。距離の問題ではない。もともと行けるところではないのかもしれない。二人でなければ、二つのものが一つでなければ行けないところへ向かっているのかもしれない。
 アツシに山狩りのことを伝えなくてはならないと思った。何をどう伝えればいいのかわならない。自分が野犬を撃ち殺す側の人間でないことを伝えたいのだろうか。いや、そうではない。本当はどちらの側にも身を置きたくなかった。殺す側にも、殺される側にも。だが現実の世界では、どちらかに身を置かなければならない。どちらかを選ばなければならない。二つをともに生きることはできない。なぜなら二つで一つのものを人は生きていないから。自分が自分であるためには、父を否定しなければならない。父の生き方から離れなければならない。新しい世界へ行くためには、古い世界を捨てなければならない。
 どうしてこんな生き方しかできないのだろう。選ぶことも否むことも捨てることもなしに、すべてを包み込む円かな世界を生きることはできないのだろうか。アツシ、おまえが生きている世界はどうなのか。すべてが備わっていて足りないところのない、何もかもが満ち足りて安らかに生きることのできる、そんな場所が暗い森の奥に、いまも密かに息づいているのだろうか。自分が自分でありながら他のものでもあるような、人と動物がただ一つのものであるような。そこには時間も空間もないのかもしれない。時間がないから自分というものはなく、空間がないから遠い近いもない。すぐ近くにあるものは無限に遠く、遠く隔たったものも至って近い。すべてのものが重なり合ってしまう。そういう世界から、おまえはやって来るのだろうか。
 いつのまにか尾根に出ていた。何ものかにつまみ上げられ、無造作に置かれた気分だった。眼下に谷川が流れている。川の水は秋の日差しを浴びてきらきら光っている。前に来たときにも、こんな風景を見ただろうか。前方の幾通りにも重なりあった丘の向こうに、ぼんやりと青い草原が広がっている。どうやら芒の野原らしい。風が吹いて山が鳴ると、芒は青白く揺れて波立つようになる。
 ここはどこだろう。どこへ来てしまったのだろう。アツシの所在を訪ねているつもりで、自分のほうが訪ねられる者になった気がした。二人でたどった道を歩いてきたはずなのに、たどり着いたところはまったく別の場所だった。村があったはずではないか。人の住んでいない打ち捨てられた村が。だが、そんなものはどこにも見えない。点在していた廃屋は、いまでは影も形もなく消えて、ただ芒の野原が青白く光っているばかりだった。
 そこに一本の木が生えていた。近づいてみると樹齢を重ねた大きな楠だった。幹は根元のところが真っ黒に焦げて大きな洞のようになり、力士の腕を想わせる隆々とした枝に、古い縄や鼻緒の切れたわらじなどが吊るしてある。いつか父が「天狗の腰掛け」と言っていた木に似ている気がした。だが時代が違う。あれは明治か大正の話だったはずだ。きっと別の木だろう。それともあちこちに現れるのだろうか、こうした由緒ありそうな木が。
 不意に風が止んだ。世界から音が消えた。太陽が急に明るさを増した気がした。自分が誰だったのか、にわかに思い出せなくなりそうだった。どこからやって来て、どこへ行くつもりだったのか。祖父から聞いた神隠しの話をまた思い出した。消えた子どもたちは、いずれ見つかることが多かった。遠方の町や村を歩いていたり、目も眩むような高い木の枝に坐っていたり。何年も消息を絶っていた子が、成長してひょっこり戻ってくることもあったという。
 誰もが捨て子みたいなものではないだろうか。捨てられたようにして、たまたまここにいるだけではないのか。そんなことを寄る辺のない気分で思っているうちに、どこからともなく風が起こり、冷たい空気が草原を走った。何かの合図ででもあったように、楠の後ろからアツシが現れた。まるで木の陰に隠れていたような現れ方だった。あまりの呆気なさに、「なんだ、いたのか」と声を掛けそうになる。
「アツシ」健太郎は前置きもなしに言った。「おまえはもうここを出たほうがええ」
 少年は答えずに、所在なさそうに立っている。ひとりきりの様子で、何かに耳を澄ませているでもあり、ただぼんやりと突っ立っているだけのようにも見える。やがて顔を上げて空を見た。釣られて見上げると、雷の音だろうか、遥かに高いところで空が鳴っている気がした。音はゆっくりと地上に降りてきて、草原の向こうを多くの者が歩いていくようなざわめきにかたちを変えた。風は止まっている。青白く光る無風の草原に、アツシはじっと目をやっていた。その眼差しにわずかな好奇が動く気がして、
「なんかおるのか」と健太郎はたずねた。
 少年は自分が見ているほうを指差した。はぐれた自分自身を見つけたかのように。そこに誰かいるように。あるいは何かがいるかのように。健太郎には何も見えない。アツシには見えているらしい。蓬髪にみすぼらしい着物を身にまとった孤児の姿が……一瞬、健太郎にも見える気がした。
 突然、アツシが駆け出した。健太郎のほうは不意を衝かれる恰好になった。
「おい、待て」
 慌ててあとを追うと、すでに十メートルほど先に行っている相手は、振り返って「早く来い」という仕草をした。太陽を背にした顔は、暗い影をつくりながら笑っているように見える。はじめて見せる笑顔だ、と健太郎は思った。追いつく間際に、再び駆けはじめた。何かを懸命に追いかけるような走り方だった。その少年を、健太郎がまた追いかける。何をしようとしているのか考えられなくなりそうになりながら、ただ足だけを動かしている。いくら追いかけても追いつけつけない。すでに息は上がりかけている。
「どこまで行く」喘ぐようにして呼びかけた。
 アツシは答えない。今度は振り向きもしない。魅入られたかのように、何かを夢中になって追いかけている。全力疾走で前方の丘を登っていく。その後ろ姿は意外なほど幼かった。走るほどに時間を遡って幼くなっていく気がした。
「おい、アツシ」
 足が痺れてきた。息も苦しい。どこをどう走っているかわからなり、全身の力が地面に吸い取られていく気がして、健太郎は草のなかに倒れ込んだ。空がぐるぐるまわっている。目を閉じると、今度は自分がまわりはじめた。深く息を吸って吐くことを何度か繰り返した。わびしいような草の匂いとともに、何かを悔やむような気分に引き込まれかけている。あいつは何を見ていたのだろう。何が見えていたのだろう。アツシに見えていたものが、なぜ自分には見えなかったのだろう。とりとめのない疑問とともに、心の奥が寂しさとも悲しみともつかない色に染まっていく。
 一人取り残された気分で時間だけが過ぎていった。何かがやって来る気配がした。物音よりも静かな息遣いとして近づいてくる。人だろうか、動物か? 危害を及ぼすものか? アツシが戻ってきたのかもしれない。本気では思っていないことを言葉にして、目をあけると、顔の先で一頭の馬がプルプルと鼻を震わせた。
「なんだ、おまえは」
 その声に、馬は急に興味を失ったみたいに離れていった。しばらく行ったところで立ち止まり、静かに草を食べはじめた。そんな様子を、狐につままれたような気分で眺めていた。あらためて見ると美しい馬だった。艶やかな茶色の毛は太陽の光を受けて輝いている。ふさふさした尾が、見事にまるい尻を覆っている。
「どこから来たんかの」
 アツシはこいつを追いかけていたのかもしれない、と健太郎は思った。きっと彼には見えていたのだろう。青白く光る芒の草原を悠然と走っていく馬の姿が。だからあんなに夢中になって追いかけていたのだ。馬を捕まえるつもりだったのかもしれない。だが捕まえきれずに、馬は走りつづけてここへやって来た。するとアツシもここへやって来るだろうか。
 そうではないことはわかっていた。もう二度と自分の前には現れない。かわりに馬が現れた。不在になったアツシにかわって現れた。不在になった場所から、彼のかわりにやって来た。自分たちは一緒に馬を見ることはできない。馬が立ち現れるためには、どちらかがいなくならなければならない。「アツシ」という名前だった。その面立ちを、健太郎はすでに思い出せない気がした。
 急に気温が下がり、空気が冷たくなったようだった。馬は草を食べることをやめ、警戒するように耳を立てている。今度はなんだろう。何がやって来るのだろう。叫び声のようなものが聞こえた。人間の声だろうか? 空耳かもしれない。またしても吉右衛門爺さんの呪術にかかろうとしているのだろうか。
 見上げる空は白っぽく光り、薄い灰色の雲が何かに追われるように速く走っている。近くにいた馬が一度激しく頭を振った。それからなだらかに下っている尾根のほうへ歩き出した。しだいに小走りになり、最後には早足になっていた。風が出て、野原の草が一面に波を立てた。空が暗くなってきた。まわりの景色がぼんやり霞んでいる。
 馬が駆けていったのと反対側の草原を、大勢の人が歩いていた。隊列をなした兵士だった。肩に鉄砲を担いでいる。鉄帽をかぶり、足にはゲートルを巻き、雑嚢を背負った完全装備だ。誰もが無言だった。ただ真っ直ぐに前を見据えて歩いていく。どの兵士も、肩のあたりが仄かに光っている。
 冷たい風が草を渡りはじめ、雲や霧が切れ切れに流れていく。そのなかを兵士たちは黙々と進軍をつづける。静かに草原を渡り、丘の向こうへ歩いていく。丘の向こうは下りになっていて、ここからだと一人ずつ草のなかに消えていくように見える。消える間際、彼らは人ではないものに姿を変えるようだった。
(イラスト RIN)