なお、この星の上に(44)

18
 鉱山で働いていた男が酒を飲んで、ふらふらと宿舎を出たまま帰らなかった。どこか近くで酔いつぶれているのだろう。この季節、一晩放置すれば夜の冷気が体温を奪い生命にもかかわる。仲間たちは手分けしてあたりを探したけれど見つからない。翌朝になって男は、飯場のすぐ近くの山のなかで死体となって見つかった。
 村はその話で持ちきりだった。近年稀に見る凶事とはこのことだ。発見された死骸は凄惨を極め、剛気な山の男たちを戦慄させるほどだったと伝えられた。被害者はまさに惨殺されていた。強い恨みや憎しみを抱いた者の犯行、と一目見た捜査員たちは思った。しかし死骸を詳細に調べてみると、唇の周囲の肉が無残にえぐり取られ、舌や咽喉、内臓までもが喰いちぎられている。傷に残る咬まれた痕は、鋭い歯を持った動物のものであることがわかった。
 間違いない。野犬が男を襲ったのだ。しかも一匹ではない。かなり大きな野犬の群れが、寄ってたかって男を喰いちぎった。泥酔していたのなら苦痛は感じなかったかもしれない。だが途中で意識を取り戻し、犬に顔や内臓を喰いちぎられるまま、もがき苦しみながら死んだのだとしたら。そのことに飯場で働く者たちは恐怖し、恐怖は野犬にたいする憎しみと復讐心に変わっていった。猟師を集めているという話は村にも入ってきた。報酬が出るらしい。鉱山の開発を進める燃料公社がカネを工面するという。寄り合いで一度は立ち消えになっていた山狩りの話が、より大がかりなものとして実行されようとしていた。
 この山狩りに、村の男たちのほとんどが参加することになった。異を唱える者はいなかった。現に野犬に牛を襲われた農家もある。いずれ村にも人的な被害が出るかもしれない。野犬にたいする憎しみと復讐心は、村の男たちのあいだにも共有されていた。男たちは再び心を一つにしようとしていた。バラバラだった善と悪が、一つに集約されようとしていた。野犬という顕著な悪が立ち現れることによって。いま男たちの心をとらえている善とは、悪を具現した犬たちを狩ることだった。
「なんやら浮かれ騒いどるなあ」庭に井戸に蝋燭と水を供えている祖母が、どこか咎めるような口調で漏らした。「前もこんなふうやったよ。戦争がはじまる前はなあ、若いのも年取ったのも我を忘れて、妙に浮ついたようになっとったが、またあれがはじまるのかなあ」
 その夜、父が居間で猟銃の手入れをしていた。油を含ませた布を細い鉄の棒の先に巻き、銃身のなかを掃除している。ときどき銃口を覗き、汚れなどが残っていないか確かめている。父が所有している銃は二丁あった。一つは上下二連式の散弾銃で、もう一つは銃身の長いライフル銃だ。散弾銃は最近手に入れたものだが、ライフル銃のほうはもっと古そうに見えた。その銃を構えてじっと照準具の先を見つめる目つきは、いつもの父のものとは違っている。やがて息子の視線に気づいたのか、父は銃を下ろして、
「鉄砲いうもんは、手入れを怠るとすぐに錆びるでな」と言った。
「その鉄砲は戦争でも使いよったのか」
「いや、戦争のときに使いよったものはみんな返してきた」父はいつもの父に戻って答えた。「戦後しばらくは狩猟も禁止されとったでな。村の者が持っとる銃は、狩猟が解禁されてから新しく手に入れたものだ」
 父は銃の手入れをつづけた。いまは引き金のところを布で拭いている。どこか艶かしいような手つきだった。思わず魅入られそうになって、
「うまくいくかの」と健太郎は山狩りのことに言葉を向けた。
「わからん」父は手を休めずに答えた。「犬など狩ったことがないけんの。普通は犬でシカやイノシシのような動物を追い出して撃つもんだ。犬は猟になくてはならん。犬なしでは猟が成り立たんと言うてもええほど、犬と猟は切っても切れん関係にある。その犬を狩るやら、聞いたことがない。わしらの犬が、山に潜む野犬を追い出してくれるかどうかもわからん」
「犬が追わんなら、人が追い出すのか」
「どこかに野犬の巣があるはずだと、山に詳しい者は言いいよる。巻き猟に近いやり方になるのやないかの」
 その口ぶりから、父が今回の山狩りにあまり乗り気ではないことが伝わってくる。
「鉄砲は二丁とも持っていくんか」
「わからんの、どっちを使うことになるのか。両方持っていくかもしれん。どっちか一方でええことになるかもしれん。いずれ指示があるやろう」
 父は黙って銃の手入れをつづけた。そばに息子がいることも忘れ、自分だけの深い思いに入り込んでいるように見えた。父のまわりだけ空気が重たく澱んでいる。硝煙の匂いでも漂ってきそうだ……とぼんやり思っている自分に気づいて、健太郎はふと我に返った。もちろん実際にはそんな匂いはしない。首をかしげる間もなく、問いはほとんど無意識に口をついて出た。
「人を撃ったことがあるか」
 言葉にしてみると、自分が前からそのことをたずねたくて機会を窺っていたような気がした。
「戦争やけんの」父は表情を変えずに返した。
「殺したか」
「わからん」あいかわらず静かな声だった。「いつもただ夢中で撃った。当たったかどうかはわからん」
 言葉とは裏腹に、先ほどよりも目つきが鋭くなっている気がした。その眼差しが語ろうとして語りえないものを、健太郎は読み取ろうとした。父は長く口を開かなかった。部屋の空気が薄くなった気がした。足りない空気を吸い込むように大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。この父と自分はつながっているという切実な思いが、健太郎の心を占めていた。父が生きた時間は自分のなかにも流れている。その時間をありありと感じた。
「綾子は民主主義が好きみたいだの」ふと思いついたことを口にするように言うと、手入れを終えた銃を広げた新聞紙の上に置いた。
 それまでと変わらぬ穏やかな声であることに健太郎は安堵した。しばらく時間が過ぎた。つながりの見えないことを言ったきり、父は腕組みをして二丁並べて置いた銃を静かに眺めている。やがて食卓のほうへいざるようにして坐り直し、煙草と灰皿を引き寄せて火をつけた。
「生きて帰れるとは思うてなかったよ」さらに脈絡のないほうへ言葉をつないだ。「そんなことを思うてはならんかった」
 健太郎はもの問いたげに父を見た。父は食卓に肘をついて、美味そうに煙草を吸っている。そこにいるのは、いつもの寡黙な父だった。一つの言葉から、つぎの言葉が出てくるまでの時間が長い。間延びして、聞いているほうは「早くしてくれ」と言いたくなる。いまの父が、まさにそうだった。
「いまは学校でも命は何よりも大事なものと教えられとるやろう」長く煙を吐いてから、父はたずねるともなく言った。「人の命も自分の命も大事にせなならん。民主主義ではそうなっとる。間違っちゃおらん。そっちのほうが本当やろう。わしらのころには、命は軽いものやった。いつでも捨てられるように準備しておかねばならんものやった。そう教えられた。自分の命を大事にする者は臆病者と言われかねんやった。民主主義やなかったけんの」
「軍国主義か」健太郎は耳障りな言葉を挟んだ。
「人間の考え方はころころ変わるものでな」
「民主主義が嫌いなんか」子どもみたいな問いを投げると、
「別に嫌いやない」父は含みをもたさない口ぶりで答えた。「軍国主義よりはずっとええものやと思う。ただ、ええことと悪いことが、あんまりころころ変わるのは困りものやな。そのうちに何がええことで、何が悪いことかわからんようになる。一人ひとりが勝手に、ええことも悪いことも判断するようになる。そうなると世の中は乱れるやろう」
 父はあいかわらず食卓に肘をついて、どこか遠いところを見るような目で煙草を吸っている。そんな父が、健太郎には見知らぬ生き物のように眺められた。
「民主主義か」煙草をくわえた顔を、手入れを終えた銃器のほうへ向けてひとりごとみたいに言った。「悪いものではないが、わしらにはなかなか馴染まん言葉のようでな。うかうか馴染んではならん気もする」
 他人事めいた物言いを健太郎は怪しんだ。黙ってつづきを待ったけれど、つづきを話す気は父にはないらしい。夜は静かに更けていた。この静けさのなか、二丁の冷たい銃が身じろぎもせずに横たわっている。その静まり具合が、がかえって本来の残忍さを潜めているようにも見えた。
「大事なエネルギー資源を供給するという前提があって、あの人たちは山を開発しよるのやろう」やがて父は、のろのろと動き出す機関車のように言葉を繰り出してきた。「だが肝心の前提が間違っているのかもしれん。その前提はまやかしかもしれん。わしらの戦争がそうやった。この戦争は正しい戦争で、多くの人を救うために必要だと言われ、それに納得して戦争に行ったわけやが、いまでは間違っていたという者はたくさんおる。そのころなら死刑になったかもしれん。戦争が間違っているなどとは、口が裂けても言えんかった。思うたことを言えるのはええことだ。綾子みたいな子どもでも自分の考えをはっきり言えるのは、民主主義のええところかもしれん」
 一息つくように言葉を置いた。その間がまた長くなるのだろうと覚悟しかけたころに、
「正せる間違いならええがの」と父は言葉をつないだ。「しかし間違った戦争のために、わしらの仲間は大勢死んだ。またわしらも大勢の人を殺した。間違いと言って済まん間違いもあるでな」
 吸いかけた煙草は指のあいだで短くなっていった。立ち昇る白い煙が、非業に死んだ多くの者たちへ手向けられたもののようにも見える。
「町で暮らそうと思うことはないのかと、前に訊いたことがあったな」古い因縁話でも持ち出すように父は言った。
 健太郎は話が届いていることを示すために頷いた。
「田んぼで米を作ることも、畑で野菜を作ることも、牛や鶏を飼うことも山仕事も、みんな単純なことの繰り返しよな」自分に言い聞かせるような口ぶりで父はつづけた。「毎年きまったことの繰り返しで、健太郎はつまらん思うかもしれんが、それをつまらんと言うては、どんな仕事もつまらんことになる。単純なことの繰り返しに、なんかええもがあると思わんとな。わしらぐらいの歳になると、毎日、毎年同じ繰り返しのなかに月日を積み重ねていくことを、幸せと感じることがある。みんながどうかはわからんが、とうちゃんはそう感じる。なんか知らんが降り積もっていくものがある。自分のなかが少しずつ掘り下げられて、深うなっていく気がする。同じことを繰り返しておっても、同じやないことがわかってくる」
 得心がいったわけではないが、どういうことかとたずねても納得の得られる答えは返ってきそうにない。ひとまず呑み込んで頷いた。すると父はいくらか困惑した口ぶりで、
「戦争が恐ろしいのは、理由なしに人を殺せることかもしれんな」と言った。「戦争では人を殺すことが自然になる。ええも悪いもない。悪いことにはためらいが生まれる。悪いことを悪いと思いながらすることはなかなかできん。だが戦争では人を殺すことが悪いとは思わんようになる。ええこととや立派なこととは思わんまでも、普通のことになる。人はなんにでも慣れるもんでな。慣れてはならんことにも慣れる。特別なこととも異常なこととも思わずに、なんも感じんようになる。そこが戦争の恐ろしいところだの」
 淡々とした口ぶりのなかに、張り詰めた気配が伝わってくる。その口ぶりを崩せば、恐怖や混乱が一気に吹き出してくる。凄惨な現場が立ち現れる。この人にとって戦争の恐ろしさは、自分の一部になっているのだ、と健太郎は思った。
「戦争では誰もが無神経になる」言葉を選ぶようにして父親はつづけた。「鉛のように無神経にならねば、戦場では生きていけんもんだ。もう二度と、ああいうところには行きとうない。ああいうふうにはなりとうないと思う。だが、あっけなく人はそうなってしまうもんだ。その点は民主主義もあてにならん。ええことと悪いことが、短いあいだにころころ変わってしまう世の中では、あてになることは何もないと思うとったほうがええ。辛うじてあてになるのは、自分の手で地面の土に触れて感じることくらいではないかの。山の仕事をしたり動物の世話をしたりして感じ取ることに、それほど大きな間違いはない。健太郎には退屈に見えるかもしれんが、ここの暮らしはとうちゃんにとっては悪いものではないのよ」
(イラスト RIN)