なお、この星の上に(43)

 つぎの土曜日、しかしアツシは避病院に現れなかった。一時間ほど待ってみたけれど、やって来る様子はない。彼が住んでいる山の集落へは、行こうと思えば一人でも行けそうな気がする。道はわかっているつもりだ。ただ暗い針葉樹の森に入るのは気が進まなかった。おかしなものに取り憑かれても困る、と差し迫った憂慮につながっていきそうなことを戯れに思った。それに何か急な事情ができたのだとすれば訪ねていっても留守かもしれない、ともっともらしい口実をつけて避病院を離れた。村のほうへ歩きはじめると、アツシがやって来ないことを予期していたような気がした。
 帰り道をたどるうちに、午後の眠気が差してきた。ここがどこだか、いまがいつだか、ぼんやりした気分になりかけている。心がうつろでも自分の家にはたどり着ける、という安心感があった。その安心感は、今日は会えなくても、また来週には会えるという根拠のない楽観につながっていくようだった。
 村に入ったところで、向こうからやって来る豊に会った。昭の家に行った帰りだという。
「見送りに行ったが、もう出たあとやった」
 たしかに出発は土曜の午前中と本人が話していた。今日がその日だったことを、健太郎は迂闊にも忘れていた。
「会えんかったんか」
 豊は残念そうに頷いた。
「一言、見送りを言いたかったのやが」
 二人は田んぼ沿いの道を折れて歩いていった。しばらく行ったところで、
「武雄はあいかわらず学校へは出てきてないのか」と豊がたずねた。
「そういえば最近は学校を休んどるな」問われたままに答えると、
「あれま、知らんのか」
 豊は心底呆れたという顔で健太郎を見て、武雄がいま新吾の次兄のところで暮らしていることを告げた。農作業の手伝いなどをしながら、猟師になる準備を進めているらしい。
「そのうち吉右衛門爺さんにも会えると思うとるんやないかの」
「ちいとも知らんかった」
「呑気やの。同じ組やのに」
 二人は黙って歩きつづけた。刈り入れの終わった田んぼには、二番穂の緑が戻ってきつつあった。遠くのほうで草を焼く煙が立っている。大きく息を吸い込むと、枯れ草の匂いとともに、少し湿っぽい煙の匂いが胸のなかに入ってきた。
「昭もこんな中途半端な時期に転校しては大変やろうな」健太郎は去っていった同級生のことに言葉を向けた。
 豊は表情を変えずに歩いていたが、
「わしは昭がどっかへ行けばええと思うとった」あいかわらず感情は表に出さず打ち明けるように言った。「都会から来て、頭も性格もええ。欠点らしい欠点は見当たらん。一緒におると自分が見劣りするように思えて、昭にあんまりええ気持ちをもてんかった。嫌いというわけやないが、なんとのう苦手やった。引っ越すと聞いたときも、ほっとしたいうのが正直なところやった。そういう気持ちになっとる自分が、なんやらつまらん人間に思えてな」最後は自嘲の口ぶりになって収めた。
 話を聞きながら健太郎は、この気のいい友人が自分の内面を代弁してくれている気がした。同時に、気づきたくなかったことを、無造作に目の前に広げられたようでもあった。妬ましさを含めて、昭にたいする複雑な気持ちは健太郎のなかにもあった。それは水中へ投じられた丸太のように、ときどき浮かび上がってくる。水面にあらわれそうになるたびに、手でそっと押し戻す。丸太は静かに再び水のなかへ沈んでいく。そんなことの繰り返しではなかったか。
「カネを持ってこいと言われていたらしい」健太郎は先日聞いたばかりのことを話した。
 するとクラスの違う豊は、
「ああ、知っとる」と答えた。
「知っとったんか」意外そうに返すと、
「知らんかったんか」またしても呆れられた。「たいていの者は知っとったと思うぞ。みんな見て見んふりをしとったのやないかの。わしもそうやけど、かかわり合いになりとうないけん」
「先生は知らんかったんやろうか」
「たぶんな。知っとって、知らんふりをしとったかもしれん」
 眼差しを上げると、まだ午後の早い時間なのに少し日が翳ったように感じられた。日が短くなるこの時期が、健太郎は苦手だった。気持ちまで縮こまっていく気がする。晩秋へ向かう村の景色が、ひときわわびしく眺められた。そんな景色を眺めている自分たちを、みじめだと思った。
(イラスト RIN)