なお、この星の上に(42)

 昭が母親とともに引っ越すことになった。伝え聞いたときには唐突な感じがしたが、どうやら自宅の火事と、その後の一連の放火事件を憂慮した父親の意向らしかった。自分の携わっている仕事が近隣の者たちの反感を買っているとすれば、この先どんな恨みを向けられるか知れない。予期できぬ危険を避けるため、妻と息子を都会に返すことにした。
 引っ越しの前に、健太郎は昭に会っておきたいと思った。学校で毎日顔を合わせているようなものだが、級友たちの目もあってゆっくり話せない。それで放課後、一人で昭たちの住まいを訪れることにした。家事で焼け出されたあとは適当な借家が見つからないらしく、家族三人は父親の事務所に身を寄せていた。
 事務所のまわりには新しい建物が増えていた。町や村で不穏なことが起こっても、エランの研究と開発は予定通りに進んでいるらしい。外から声をかけると、戸口に出てきた昭は健太郎を見てちょっと驚いた顔をした。どうやら帰宅したばかりだったようだ。
「忙しいときにすまんな」と健太郎は言った。「引っ越しの準備やら大変やろう」
 昭はいくらか表情を和らげて、
「たいした荷物もないから」と言った。
「ちょっと話ができるか」
 昭はしばらく考える素振りを見せ、
「外でいいかな」と言った。「家のなかは散らかっているから」
 二人は出て川のほうへ歩きはじめた。この道は鉱山開発のために新しく造られたものだ。ときどき大型のダンプや資材を積んだトラックが通る。だらだら下る道を行くと川に出た。健太郎たちが魚釣りをする渓流からはかなり下流になり、このあたりでは川幅は広く流れも緩やかだった。いまはコンクリートの頑丈な橋が架かっているが、かつては何もない天然の川原で、夏には子どもたちが川遊びを楽しむ場所だった。
 橋のたもとを折れて、二人は川の土手を歩いていった。
「引っ越しはいつかの」歩きながら健太郎はたずねた。
「今度の土曜日」昭は事務的に答えた。「その日は学校を休んで、午前中には出発の予定だ」
「東京へ戻るのか」
 黙って頷いた。
「寂しくなるな」
「まあね」
 自分たちがかたちだけの言葉を交わしている気がした。前から昭とはこんな感じだっただろうか。そうではなかった気がしたけれど、はっきりとは思い出せなかった。
「いまのところは狭くてね」と昭が言った。「もともと宿直の人が寝泊りするだけの部屋だから」
 事務室からドア一枚隔てた六畳ほどの部屋で、家族三人が寝起きしているという。
「そら不便やろう」
「長く居るつもりはなかったから」
「東京には自分の家があるのか」
 当たり障りのないことを話してしまうと会話がつづかなかった。黙って歩きつづけていることが、健太郎には苦痛に感じられた。その沈黙によって、自分が責められている気がした。今日、昭に会っておこうと思ったのは、いくらか免罪の気持ちもあったのかもしれない。
「それにしても迷惑な話やな」健太郎が寄り添うように言葉を向けると、
「家に火を付けるなんて、どうかしているよ」相手はもう済んだことだという口ぶりで返した。「日照りがつづいて空気だって乾いている。燃え移ることは考えなかったのかな。強い風でも吹いていれば大火事になりかねないのに」
 被害の当事者でありながら、妙に合理的なことを言っているのがおかしかった。さすがは技術者の息子だと思った。
「村の大人らは、みんなおかしゅうなっとるのよ」健太郎はとりなすように言った。「エランのせいで村中がおかしゅうなっとる。なんであんなものがお山に埋まっとるかと思うことがある。どっか別のところに埋まっとったらよかったのに」
「エランに責任はないよ」昭は大人びた口調で言った。
「まあ、そうだの」健太郎は曖昧な相槌を打った。
「小さな原子なかには途方もないエネルギーが蓄えられている」昭は歩きながら難しい話をはじめた。「うまく取り出すことができれば、いろんなことに利用できる。電気を作って、みんなの暮らしを豊かにすることができる。でも間違った使い方をすれば、この前の戦争みたいなことになる。価値のあるものほど危険も大きい。だから慎重に扱わなければならない。そのための研究や開発をしているってことが、ここの人たちにはわからないらしい」
 腹を立てているというよりは、どこか諦めたような口ぶりだった。
「わからんわけではないのやろうが」健太郎のほうは村の人たちを庇いたい気持ちになっている。「ここらの暮らしはもともとがゆっくりしとる。急に変わることには慣れとらんのよ。少しずつ変わっていくなら、村の人らも受け入れることができる。ところがここ数年は新しい道ができたり、新しい橋が架かったり、知らん人が大勢やって来たり、山が形を変えるほど切り開かれたり、何もかもが急速やった。そういうことには慣れとらんのよ。あんまり急に変わると、自らの暮らしが壊されていくと感じるのやないかの」
「わかってないんだ。大人も子どもも」昭は思いがけず強い言葉で言った。
「なんがわかってないんかの」素朴な口調でたずね返すと、
「何もかも」相手は投げやりに答えた。「変わっていくのが嫌なら、いつまでも炭を燃やして家のなかを温めたり、薪でご飯を炊いたりしていればいい。自分の手で畑を耕し、稲刈りをすればいい。馬に荷物を運ばせたり、牛に犂を曳かせたり、そういう暮らしをずっとしていればいいんだ」
 ひとしきり言い募って足を止めた。誰かに呼ばれたか、何かを思い出したか、そんな立ち止まり方だった。
「そう思わないか」振り向いてたずねた。
 健太郎は答えなかった。昭はすぐに顔を背けるようにして、ほとんど歩調も乱さなかった。二人は黙って歩きつづけた。前を行く級友が、急に見知らぬ者になった気がした。自分がなぜいまここにいるのかわからなくなった。どうして昭と一緒に歩いているのだろう。自分たちは同じ場所にいるように見えるけれど、本当は別の世界にいるのかもしれないと思った。新しい世界と旧い世界に、あらたまっていく世界と取り残されていく世界に。
「カネを持ってこいと言われたよ」
 再び昭が口を開いたとき、健太郎はなんのことかすぐにはわからなかった。話しているほうも、いかにも蔑んだ口ぶり以外は、心の在処を悟らせないような切り出し方だった。
「もちろん持っていかなかった。そしたら殴られた。顔じゃなくて腹をね」
 むしろ殴られたことよりも、そちらのほうが不正なことだと言いたげだった。何人かの顔が浮かんだ。おそらく外れてはいないだろう。そういうことをしそうな者はきまっている。
「馬鹿なやつらだと思ったよ」負け惜しみではない口調で昭は言った。「大人も子どもも。どうしようもない馬鹿だ」
 言いたいことはわかる。もっともなことだと思う。その一方で、健太郎は昭にたいして軽い憎しみをおぼえていた。数年前に家に石油ストーブが入ったときのことを思い出した。あのときストーブの暖かさに、家族の誰もが感動に近い驚きをおぼえたものだった。おかげで冬の家のなかはずいぶん過ごしやすくなった。静かな夜寒に妹の綾子と二人で、ストーブの小窓のなかで燃えている火を、いつまでも飽きずに眺めたことをおぼえている。芯に染み込んだ石油が燃える炎を美しいと感じたときから、自分たちも新しい世界に足を踏み入れたのかもしれない。するといま感じている厭わしさは誰に向けられたものだろう。誰が誰を厭うていることになるのだろうか。
「そろそろ帰るよ」昭は明るくも暗くもない声で言った。「訪ねて来てくれてありがとう」
 健太郎はただ黙って頷いた。心残りになることはわかっていたが、返す言葉を思いつかなかった。なぜ自分たちはバラバラなのだろう。お互いに言葉も通わないほど隔たっているのだろう。アツシに会いたいと思った。どうしても会わなければならない気がした。
(イラスト RIN)