なお、この星の上に(41)

 土曜日になった。午前中の授業が終わると、健太郎は急かれる思いで家に帰り、手早く昼飯を済ませてから避病院へ向かった。アツシは時間を違えず約束の場所に現れた。まるで待ち伏せしていたかのように、崩れかけた石塀にもたれて立っている。その姿を目にした瞬間、なぜか健太郎は相手に弱みを握れている気がした。
「アツシ」先手を取るように声をかけた。
「来たな」少年はあっさりと答えた。
「おまえに訊きたいことがある」
「家に行こう」
「ここでええ」
「落ち着いて話ができん」
 すでに相手は先に立って歩きはじめている。促されるようにしてあとにつづいた。二人は前と同じように「雲の平」の廃村へ向かった。途中の行程は意識にとどまらなかった。奇妙な反復感とともに、一週間前と同じ時間に、そのまま自分がいるような気がした。
「野犬が村の牛を襲いよる」部屋に腰を下ろすなり、健太郎は前置きもなしに言った。「おまえ、なんか知っとらんか」
「わしが何を知っとるいうんか」アツシは薄笑いを浮かべてたずね返した。
「野犬のことよ。なせ急に牛を襲うようになったのか」
「よっぽど腹を減らしとるんやろ」本心ではないことが口ぶりにあらわれている。
「野犬が牛を襲うなど、前にはなかったことじゃ」健太郎のほうは真剣だった。「野犬を見ることさえめったになかった。犬は里で人と一緒に暮らす動物で、山に棲むものやない。まれに人に懐かんのが山に入って野犬になりよった。どういうわけで野犬が増えたのか、そこがわからん」
 答えを期待したが、相手はいつまでも口を開かなかった。寝起きのような顔を薄日の差す窓のほうへ向けたまま、上の空な様子でぼんやりしている。
「わしはこのごろ自分の村が厭になった」と打ち明け話めいた口調で話をつないだ。「村の者らは山を売った町の人間や、飯場で働いている人夫らのことを悪う言うが、自分らにしても山狩りの相談をしよる。牛を襲う野犬を鉄砲で撃ち殺すつもりらしい。我が身のことだけ考えて、目先の欲得で動くのは村の者も一緒じゃよ。わしは大人というものが厭になってきた」
「ここに来て一緒に暮らすか」冗談とも本気ともつかずに言った。
「大人にならずに済むか」健太郎がたずねると、
「野犬を撃ち殺すような大人になることはなかろう」皮肉めいた言葉を返した。
 健太郎は真意を確かめるように相手を見た。
「大人にならずとなんになる」アツシは心のうちをあらわさずに言った。
「なんになろうかの」健太郎は思案げに宙を仰いだ。
「幽霊にでもなるか」
 反論するのも馬鹿らしいという顔をして見せると、
「なせ大人になりとうないんか」今度は親身にたずねてくる。
「なんとのう忌まわしい気がする」成り行きにまかせて答えた。
「どう忌まわしいんか」
「わからん」ひとまず放り出してから、「大人の男は二つの顔をもっとる気がする」と再び思いつきを口にした。
「どういう二つの顔か」アツシは執拗に追ってくる。
「普通のときと戦争のときの顔かの」苦し紛れに答えると、
「なるほどの」かたちだけの相槌を打った。
 風は吹いていないのに、山の高いところの木々がざわめいている気がした。そのざわめきに心が掻きまわされて、
「わしらの村はいま戦争みたいになっとる」と健太郎は思いつきを敷衍した。「めったに見かけることのなかった野犬が現れたり、町では火付けで何件も家が焼けたり、そういうことがつづくと男たちは普段とは違う顔を見せるようになる。まあ、火付けのほうは犯人が捕まったので一安心だが」
「また起こるかもしれんぞ」ことさら惑わすような口ぶりではなかった。
「火付けか」言わずもがなのことをたずねると、
「大人が忌まわしい生き物なら、同じことは何度でも起こるかもしれん」アツシは健太郎の言葉をそのまま返した。
 やがて顔を軽く窓のほうへ向けると遠くへ耳をやる目つきになった。その目が暗い翳りを帯びている気がして、
「一人で寂しくはないか」とたずねてみる。
「寂しくなどない」
「友だちはおらんのか」
「おらん」取り付く島もない口調だった。
 家のなかは静かだった。しかし静かだと思って耳を澄ますと、広くもない家のなかを誰かが足音をしのばせて歩いている気がする。それも一人ではなく、何人もの人が歩いている気配がする。死んだアツシの両親かもしれない、と気味の悪いほうに想像をめぐらせそうになる。
「この前、森の話をしとったやろう」健太郎は話題を変えるように言った。「なせ、わしにそんなことを話したんか」
「仲間やけんな」まだ半分夢のなかにいるような声でアツシは答えた。
「なせ仲間とわかる」
「わかるもんはわかる」
 堂々巡りで先へ進まない。
「おまえにもおかしなことが起こるのか」健太郎はきわどいところへ足を踏み入れるようにしてたずねた。
「どんなことか」抑揚のない声が答えた。
「わからん」ひと呼吸置いて、「わしにはようわからん」と繰り返した。「うまいこと説明はできんが、自分が自分ではなくなっとるみたいなのよ。なんか別のものに姿を変えて、あちこちうろつきまわっとるらしい」
 暗い森のなかを幽霊のようにさまよっているものの姿が浮かんだ。
「野犬みたいにか」相手はさりげなく言葉を添えた。
 いつものようにじっと健太郎を見ている。その眼差しに曝されると、こちらのどんな心の動きも悟られてはならないという頑なな気持ちになる。
「やっぱり何か知っとるのか」
「おまえが知りたいことは、おまえ自身がもう知っとるはずじゃ」すべて見透しているという口ぶりだった。「わしはおまえが知っとる以上のことは知らん」
「どんなことを知っとる」
「おまえが知っとることよ」
 またしても堂々巡りになりかける。
「おまえは自分が知っとることを、わしに確認したいだけなのやろう」
 そうかもしれない、と健太郎は思った。
「おまえはわしのなかに森があると言うたな」議論を避けて話を進めた。「おまえのなかにも森はあるんか」
「誰のなかにも森はある」アツシははぐらかすように言った。「森がなくては、おちおち死ぬこともできん。死んだらどこへ行ってええかわからんようになるけんの」
 どこかで聞いた話だと思いながら、
「そしたらわしとおまえだけが特別に仲間というわけでもなかろう」自分が言うことは理にかなっていると思いながら、健太郎はさらに押してみる。
「多くの者は自分のなかにある森のことを忘れよる」アツシは事実を告げる口調であっさりと言った。「忘れて世話もせずにおると、森は弱ってちいそうなって、しまいにはもう見つけ出せんようになってしまう。近ごろは山の奥のほうまで人の手が入り、外の森はどんどん壊されよる。外の森が壊されるだけ、人のなかにある森も壊れていく。そうなればわしらはもうどこへも行くことができん」
 わかったような、わからないような話だった。
「森は悪いものではないのだな」四捨五入するようにたずねると、
「何が悪いものか」たちどころに返した。
「だが危険なところじゃろ」
 アツシは低く声をたてて笑った。
「どんなものでも扱い方を誤れば危険やろう」
 そんなこともわからないのかという口ぶりだった。言葉を封じられた気がして、健太郎は口を噤んだ。今日は蒸した芋も水もなしか、と物足りない気分で思っている。外では少し風が出てきているらしかった。山の上のほうで吹きはじめた風が少しずつ近づいてくるが、ここまで吹き寄せることはなく、また引き返していくようだった。遠くの尾根を風が吹き渡っていく。その姿が目に見える気がした。
「森は死んだ者と動物たちが棲まうところじゃ」しばらくしてアツシはしんみりした声で言った。「その森が悪いものであろうはずがない。森が危険なものになるのは、人間が森を荒らすからよ。森が荒らされれば死んだ者は悲しむ。無残に切り開かれれば腹も立てよう。自分らの棲まう森が壊されれば、死んだ者も動物たちも容赦はすまい。生きとる者を恨んで、恨みが募って死んだ者と動物たちが一つになって、野犬のようなものが現れるのかもしれん」
「気味の悪いことを言う」と健太郎は払った。
「そうかの」
「迷信みたいに聞こえる」
「信じられんか」
 そう問われれば、はっきり信じないと断言する気持ちにもなれない。不合理なはずの話には奇妙な説得力があった。
「この前の戦争では大勢の者が死んだじゃろう」アツシは低くも高くもならない声で言った。「空襲で焼き殺された者もおる。兵隊になって遠い大陸や南の島でも死んだ者もおる。怖い思いをして死んでいった者も、未練を残して死んでいった者もおる。怨念を抱いて死んでいった者もおるやろう。そういう者らの魂が故郷の山に帰ってくる。ようやく安らげる場所へたどり着いたところに、人間がやって来て森の木を伐り、重機で地中を掘り返し、発破をかけて山の静寂を乱せば、死んだ者らの思いは野犬に姿を変え、生きている者たちを懲らしめるぐらいのことはするかもしれん」
 しんねりと教え諭すような口ぶりだった。健太郎のほうは年寄りから昔話でも聞かされている心持ちになっている。夢にうなされそうな話だと思いながら、目の前にいる者の正体がまたわからなくなる。そのうちにふと、この前本人から聞かされた話を思い出した。
「野犬はおまえのとうちゃんやかんちゃんかもしれんことになるぞ」
 口にした途端に後悔したが、アツシは平然とした顔で、
「そうだの」と返した。
 両親を亡くすということ自体が、健太郎には想像の及ばないことだった。その親たちを野犬に結びつける心情がまたわからない、と自分から踏み込んだことは棚に上げて思った。
「なんともないのか、野犬が人間に撃ち殺されることは」おそるおそるの言葉を向けると、
「おまえはどうする」逆に詰め寄ってきた。「牛を襲う野犬を撃ち殺すか」
「わからん」
 答えてから、それが現実になったときのことを考えて恐ろしくなった。
「おまえの飼っとる牛だぞ」相手の口ぶりに執拗なものを感じて、
「そんなことにならんようにする」とりあえずの逃げを打つと、
「どうやって」
 アツシは捕まえた獲物を見るようにじっと健太郎を見ている。無関心の仮面で顔を覆っているのは前と同じだった。その様子はふてぶてしくもあり、年齢と不相応の威厳をまとっているようでもあった。健太郎は身体のなかに眠っていた血が目を覚まし、ざわめきはじめるのを感じた。
「山狩りか?」相手は嘲りを含んだ声でかぶせた。
 答えずにいると、
「それなら同じことだの」むしろ憐憫の混じる声で収めた。「結局は撃ち殺すのだろ」
 言葉が途切れるとあたりの静けさが際立った。静けさのなかに、いろいろな音が含まれている。人の声やざわめきが含まれている。耳を澄ましていると、聞きたくないもの、聞いてはならぬものまで聞こえてきそうな気がする。窺うように相手を見ると、アツシの表情には動きがなかった。しかしそれは見かけだけのことで、仮面の下では何かが絶えず動きまわっているのかもしれない。
「おまえのおやじは戦争に行ったか」しばらくして脈絡のないことをたずねてきた。
「ああ、行った」健太郎は無造作に答えた。
「無事に帰ってきたか」
「帰ってきた」
「そんならええ」
 ここで父親のことを持ち出されるのが、健太郎には不愉快だった。
「どういうことか」たずねる声に苛立ちが混じった。
「わしはおやじに生きて帰ってきてもらわんで良かった気がする」アツシは感情の映らない声で言った。「死んで帰ってきてもろうたほうが心が休まる。そう思わんか」
 相手の言葉にたじろいで、
「そんなことは思わん」と言葉を返した。
 アツシは再び夢うつつの顔になっている。死んだ父親のことを考えているのだろうか、と忖度しかけたところで、
「どっちにしても難儀なことだの」一言呟いた。
 何気なく漏らした「難儀なこと」に行く手を阻まれた格好で、二人は黙り込んだ。健太郎は先ほどから自分が息を詰めるようにして話していることに気づいた。大きく息を入れてから、
「一緒に来んか」と言葉を向けてみる。
「どこへか」
「うちに来て夕飯を喰わんか」
 アツシはそれについて考えているようだった。健太郎には少年が急に幼くなったように思えた。まるで帰り道がわからなくなって途方に暮れている子どもみたいだった。
「どうか」痛ましいような気持ちになって間合いを詰めると、
「どこへも行かん」それこそ駄々をこねる子どものように言った。「ここにおるしか仕方がない」
「なせか」
 それ以上、答えるつもりはないらしかった。このまま沈黙のなかに閉ざされてしまう気がして、
「つぎの土曜も会えるか」性急な口調で現実的なほうへ言葉を投げた。
「ああ」どこか暗い声でアツシは答えた。「避病院で待っとる」
 ふと、このアツシこそ死者ではないかという疑念が頭をよぎった。暗い森を思った。そこから野犬たちが現れる、死者と動物たちが一つになって……そんなことを考える自分自身を疎ましいものに感じた。腰を上げると、卓袱台の前に居着いたままの少年の身体が小さく見下ろされた。
(イラスト RIN)