『歩く浄土』Live in KUMAMOTO 2017.5.26 (Part2)

片山 すると安倍晋三的なものは出てくるべくして出てきた、いま起こっているデタラメは起こるべくして起こっているということですね。
森崎 そうだと思います。「それはめでたいことで」という皇室報道と、やりたい放題の安倍晋三の迷妄が、分離不能の一対のものとして、この国のかたちをつくっています。稚気に等しい皇室賛歌と邪悪な安倍晋三が表裏一体であるということです。そうした日本的な心性というものは何も解けていません。一君万民平等と国民主権がなんの矛盾もなく並存し、民主主義と独裁がなめらかにつながる。それが日本人にとっての自然なのです。
片山 共謀罪も天変地異として受け入れられそうですね。
森崎 すぐに自然になると思います。共謀罪が可決し、人々は監視と密告を奨励することになりますが、日本的な心性がさらにこの過程にはずみをつけると思っています。監視と密告をすることにより共同体の一員になるのですから。
片山 それは思考の型としていうと、癌の早期発見・早期治療と同じですね。
森崎 まったく同じです。安倍のやりたい放題と癌治療の現場におけるやりたい放題は、まったく同じだと思います。抗癌剤や手術にたいして誰もおかしいと言ってこなかった。せいぜい近藤誠さんくらいでしょう。医療の現場で患者の一人ひとりが、自分でもう少し考えてみますとか、この治療は受けませんとか言ってこなかった。いまでも言わないし言えない。ぼくがかかわった部落問題もそうですが、いろんな領域でこれは違うということを言わなかった。だからやりたい放題の安倍になってしまった。チェックができない、ということだと思うんです。
片山 安倍政権を批判したり、民主主義や立憲主義を擁護したりしている人たちの大半は、自分が癌になれば医師の進める治療を粛々と受けるような気がします。そこでは安倍政権を支持する人も反対する人も同じになってしまう。机上の議論では対立しているように見えるけれど、生きている現場では全然対立していない。
森崎 ぼくは当事者性をまっとうすることでしか言葉が根付くことはないと、ずっと言いつづけてきました。言葉が根付くということは、その人のあり方がおのずと変わるということです。そうした言葉は文学にも思想にも皆無です。様々に意見を言う人はいますが、みんな言葉が自分のことになってない。安倍を批判する人にとって、安倍は相対的な悪なんです。そして自分は相対的な善の場所にいる。それが全部嘘だったと考え直さない限りだめだと思うんです。安倍晋三を称揚することも唾棄することも、意識としてはまったく同型です。安倍を批判し、国の破局を嘆く物書き文化人こそが安倍の悪政を支えている、安倍的なものを下支えしている。小さな善を積み増すことで世界は少しずつよい方向に向かっていく、という自力作善の考え方は間違っているとぼくは思います。解けない主題を解けない方法で解こうとすることの欺瞞を強く感じます。ポリティカル・コレクトネスを唱える人は、奪い合う自然における勝者です。そのなかでの適者生存をなぞっていることにしかならないのです。余裕のある人たちが民主主義や立憲主義を擁護する。内田樹さんなどが言う「文化的な雪かき」という良心は、強い者が勝ち弱い者が負けることを覆い隠します。生存競争から目を背けることとして機能することになる。結果として、この世の仕組みを追従することにしかならない。根本的な問題は、どうすればこうした意識の型、思考の慣性の根っこを抜くことができるかということです。
片山 わかりやすいので、癌治療の現場にいましばらく言葉をとどめたいと思うのですが、ぼくたちはずいぶん前から癌の早期発見・早期治療と、テロリストの早期発見・早期殲滅は思考の型として同じだと言ってきました。つまり都合の悪いものを早期に同定して排除する。癌細胞のように危険なものや不都合なものは、できるだけ早期に発見して排除する、という発想の上に今回の共謀罪(あらためテロ等準備罪)は出てきていると思うんです。かつて日本人は、「治安維持、そりゃけっこう」と言って天下の悪法を受け入れたわけですよね。いままた、「テロ対策、そりゃけっこう」と言って多くの人が共謀罪を支持している。「身の安全ためです」と言われると、予防的切除でも予防的排除でもすんなり受け入れてしまう。ある対象を「危険」や「不都合」と判定する、ぼくたちの眼差しを変える必要があると思うんです。それは森崎さんの言われる思考の慣性を抜くということでもあると思うのですが。
森崎 共謀罪を戦争期の治安維持法になぞらえるのは、重なる部分もありますが違うと思います。これから起こることは戦前のわかりやすい弾圧とは、何か次元が違うように思うのです。生誕から死までを可視化し計量する「類似の共謀罪」のようなものが、どんどん出てくるはずです。
片山 早期発見が超早期発見になり、さらには出生前診断みたいなかたちで前倒しされていくってことですね。あそこに顔つきの悪い細胞がある、不都合な遺伝子がある、早期に排除しよう、ゲノム編集で治療しよう、というふうに医学的な共謀罪の網の目はとどまるところを知りません。お医者さんたちはぼくたちの身体をミリ単位で精査し、不穏な細胞を見つけると「切り取りましょう、治療しましょう」と言うわけですよね。癌というテロを未然に防ぐためです、と言われれば多くの人は拒むことができない。でも考えてみると、これは共謀罪や治安維持法以上におかしなことです。ただ医学や医療というだけで、すべてがスルーしてしまうわけですから。これって、おかしくないだろうか、というふうに一人ひとりが考えることをはじめないかぎり、共謀罪的なものを拒むことはできないと思うんです。自分の身体に許していることを、社会には許さないというのは理屈が通りません。
森崎 戦前回帰といったような、既知の古びた認識で安倍政治を批判しても無効だと思います。安倍もまた時代の無意識に操られている属躰の一人なのですから。世界の地殻変動、グローバリゼーションと言ってもいいけれど、人類史規模の大きな変化に安倍もぼくたちも翻弄され、処方箋をもたないというのが本当のところだと思います。これから迎える世界では、誕生すると同時に生きていることがまるごとコストパフォーマンスとして測られることになる。戦前も戦後も等価なものとして一括りに生が改変される。それが当面している現実です。フーコーが70年代に予言した生権力は、分子記号学やコンピュータ・サイエンスと結びつき、同一性的な生の馴致に向けてますます洗練されていくでしょう。人格を媒介にして、さらに徹底した同一化を図ると予感しています。どうやってこの自然を平定するか。ここに世界の転形期の本質があるとぼくは思っています。
片山 いま出てきている共謀罪にしても、たしかに嫌ですけど、それが本質ではないということですね。なぜ人は共謀罪的なものを受け入れてしまうのか。これは日本だけの問題ではないと思うんです。癌治療は世界共通ですからね。もちろん日本的なバイアスはかかっているから、日本の場合は癌治療でもさらに酷いことになっている。たとえば世界中で職場検診や人間ドックをやっているのは日本だけでしょう。定期健康診断は無意味であることが、欧米などでは常識になっているからです。一方、日本では毎年300万人ほどが受けて、多くの人が数値異常を指摘されている。基準値を低くしているため、ほとんどの人が引っかかるわけです。エビデンスも何もないことが半ば義務化されている。アンジェリーナ・ジョリーが癌にかかるリスクを減らすために卵巣や卵管の摘出手術を受けたなんていうニュースを聞くと、こりゃあ合理性という名の迷妄じゃないかと思うのですが、日本の場合はさらに不合理性という迷妄が重層している気がしますね。
森崎 グローバルなものとナショナルなものと、二重に属躰化しているということですね。日本人にとって考えることは、世間に合わせるということで、世間がいいと言っていることが考えることなんです。世間と個人が通約していて、人がどう言おうとおれはこうだというのは、もともと日本人的ではない。数千年間まったく変わってないと思います。ずっとそれでやってきたわけでしょう。それだけが取り柄だった。それ以外のものはない。江戸が明治に変わったといっても王様の首をちょん切ったわけではない。ちょん切ることがいいとは言わないけれど、やっぱりお上のなすことなんですよ。戦後民主主義も日本国憲法も。自然に変わっていく。自然生成でなるようになる。変わるときは変わる。それと自分は関係づけようがない。この生き方は戦前から戦中、戦後と何も変わっていない。
片山 癌を宣告されると、すべてを医者に任せて、結果的に無駄な治療、下手をすると命を縮める治療まで受けてしまう。そこには強い日本的なバイアスがかかっているとしても、テロにたいする反応などを見ると、日本もフランスもアメリカも、世界中どの国もあまり変わらない気がするんです。戦争やテロや犯罪というかたちで危険が身に迫っている、生命が脅かされていると感じるとき、ぼくたちは国家という集団的なものに突進してしまう。思考や判断を停止して、安倍晋三氏が運営しているような政権に、まあ後ろにはアメリカがいるわけですけれど、そういう信用ならない危なっかしいものに自分たちの命運を託してしまう。そのことはぼくたちが、ただ医学部を出たというだけの素性のわからない人間に自分の命を預けてしまうということとまったく同じだと思うんです。たしかに生命がかかっていることを自分で決めるのは誰にとっても荷が重いことではあります。だから大方の人は大切な自分の命をアウトソーシングして専門家に預けてしまう。でも、そういうところからぼくたち一人ひとりが変わっていかないと、いまの世界のあり方は変わらないと思います。
森崎 そのことは戦後70年、一つの言葉を生み出せなかったこととつながると思います。要するに何があっても大丈夫だという言葉をつくれていないのです。観察する言葉や解釈する言葉ではない、生きられる言葉を一つもつくることができなかった。何があっても生きていくことができるという言葉をつくることができなかった。言葉が言葉を生きる、そういう言葉をつくることができなかった。生物学的な死にたいして表現としての死をつくると言ってもいいと思います。生の不全感を埋めることができたら、生の不遇感は具体的に解消されます。逆ではないのです。生物学的な死は誰にとっても最大の不遇です。それを消すことができるのは言葉だと思います。生の不全感を充たすのは言葉だと、二十歳のころに直感しました。ぼくにとって部落問題が倫理であったことは一度もありません。部落に偶然の縁があり、その縁を存在のあり方として長年考えてきました。部落問題を社会問題にするとは民主主義の範囲で考えることになりますが、部落が共同幻想であり、民主主義も共同幻想ですから、共同幻想で共同幻想を解くことはできないという矛盾が生じます。そのことはさまざまな社会問題についても言えると思います。戦後の擬制は成るべくしていまの事態に成っていると思います。つまり民主主義の機能不全は民主主義の理念のなかにあったということです。こういうことです。被差別部落にたいする賤視観念は遺制的な共同観念ですが、この観念を民主主義の啓蒙や啓発でなくすことはできません。皆が小さな善を持ち寄れば差別はなくなるということを民主主義は前提にしています。虚偽そのものです。それがどれほどの偽善と欺瞞に満ちていたか、現場がどういうものであったか。ぼくはそのことをよく知る生き証人の一人です。禁止は必ず侵犯される。民主主義はこの意識の型に建前としてしか機能しえない。ぼくたち一人ひとりの存在のありかたを変えることはできないのです。ぼくはできるという前提に立つ「社会」主義的な理念を擬制と呼んでいます。ほんとうはなにが問題なのか。とても簡単なことです。共同幻想のない世界をつくればいいのです。戦後の70年が擬制であると言うとき、民主主義という共同幻想を過ぎ越すことができるという前提がぼくたちにはある。
片山 同じことは憲法についても言えると思うのですが、ここに来て安倍晋三首相が唐突に「加憲」ということを言い出しました。これについて森崎さんは、どうお考えですか
森崎 安倍が言っている「加憲」というのは、要するに現状の追認ということだと思うんです。伊勢崎賢治さんが言うように、現に自衛隊は憲法9条下で、その条文を一字一句変えることなく海外に派遣され、アメリカなどの軍事活動に協力してきた。憲法は実質的に改正されているわけで、「てにをは」をちょっと変える程度のことでしょう。すでに集団的自衛権を認めているのだから、本来は憲法を改正する必要なんてないはずなんです。日本の場合はアメリカについていくわけだから、いまのままで充分です。強いて変えるとすれば、軍隊としてある自衛隊を第三項として加える。それは現状の追認で、実質的に改憲されていることが明文化されるだけです。だから抵抗はないと思うんです。安倍が思いつきみたいにして言い出したことを、日本人は拒めないと思います。そうすると伊勢崎賢治さんが言っていることは改憲のなかに取り込まれる。安倍との違いは出ない。呑み込まれますよ。
片山 いまの世界の現状を考えると、集団的安全保障については認めるしかないんじゃないか、というのが伊勢崎さんの立場だと思うんです。集団安全保障というのはPKO(国連的措置)のことですね。これは加盟国の義務なので、日本も国連に加盟している以上はなんらかの貢献をしなくてはならない。別に自衛隊を派遣しなくても、貢献する方法は他に幾らでもあると伊勢崎さんは言っていますが、現在の国連PKOが戦争そのものであることは事実です。たとえばルワンダの悲劇のようなことが起こっている、目の前で大量の虐殺が起こっている現場に、国連が軍事的に介入することは致し方ない。そういう現場に自衛隊を派遣できるようにする。そのため自衛隊に軍事組織としての法的地位を与える、といった議論は国民レベルでなされてもいい、というのが伊勢崎さんの立場だと思います。でも、そういう彼の気持ちは、安倍の大雑把な改憲議論の前にないがしろにされそうですね。
森崎 もともとぼくは護憲か改憲かという議論には興味なかった。そういう嘘は嫌だなというのがあって、憲法については長く発言してこなかったんです。いまは憲法にたいする立場を迫られているわけですよね。だからぼくはこんなふうに言おうと思うんです。護憲とか改憲とか、かたちはどうでもいい。そうではなくて憲法を超える。「超憲」っていうとなんか言葉のゴロが悪いのですが、憲法そのものを超える。だって憲法といえども共同幻想じゃないですか。国の最高綱領というか、国の掟なわけでしょう。国家という共同幻想そのものですよ。
片山 あらゆる共同幻想は消滅すべきであると言った吉本隆明さんも、日本国憲法はこれでいいという考え方だったように思います。現状において日本国憲法を否定するというのは、やはり心情的に抵抗があったんでしょうね。
森崎 否定ではないんです。あくまでも過渡だ、国家のない世界へ向かう過程に日本国憲法はある。たしかに美しい物語だと思うんですよ。伊勢崎さんは「憲法9条は日本人にはもったいない」と言っていますが、9条に限らず日本人には分不相応に美しい物語ですよ。教育勅語などハナから相手にならないくらいすぐれている。アメリカの押し付けであろうとなんであろうといいものはいい。人々の願いだったと思うんです。このあいだ日本国憲法を読み直したのですが、やっぱりいいですよ。背筋がしゃんとするというか、全力を上げて貧困に手を差し伸べると、ちゃんと書いてありますよ。そんなこといまは誰も言わないでしょう。
片山 日本人に分不相応というよりも、人類に分不相応という気がしますね。
森崎 でも、あらゆる共同幻想は消滅すべきである、国家のない世界を構想するという立場からすると、憲法の存在を認めることはどこかちぐはぐなことになるんですよ。だって諸国家が存続していることを前提とし、圧倒的な既成事実とした上の憲法でしょう。じゃあどう考えればいいのか。ぼくは憲法を超えると考えればいいと思います。憲法は国家を前提としているのだから、そういう国家を開くという過程に向けたものとしての憲法というふうに考える。国家のない世界、戦争の起こりえない世界を構想する。その方向性において過渡として日本国憲法を認める。民主主義が過程的な共同幻想であるのと同じように、憲法も過渡的な共同幻想としてある。美しい物語であることは認める。それは民主主義も同じです。過程的な共同幻想のあり方として民主主義や、美しい憲法のあり方は認めます。でも、それも究極ではない。ぼくたちは国家のない世界、戦争のありえない世界を構想している。その過程では、おのずと憲法を過ぎ越してしまう。そうした過渡として、過程として日本国憲法を大枠で認める。大枠でというのは、不戦条項はやっぱり現実的に無理だと思うからです。目の前で家族が殺されようとしている。そしたら応戦しますよ。ぼくは自分のこととしてそう思うから、個別的自衛権だけは認める。認めるもなにも、明文化する意味もないくらいの自然権だと思うんです。だから伊勢崎さんが言うように厳しく限定して、個別的自衛権だけは認める、それ以外の戦争はやりませんと明文化すればいい。その上で日本国憲法という美しい物語を過渡として過程的に認める。そう考えればいい。