『歩く浄土』 Live in FUKUOKA 2017.4.14 (Part 4)

4 総表現者としての生

片山 グローバリゼーションによって国家や文化や伝統といった保護膜が破壊され、誰もが一個の生存として剥き出しにされる。一人ひとりの個体差が個体差として、いかなる配慮も酌量もされることなく、それ自体として客観的に評価されることになる。こうした個体差のなかには身体的なものや知能的なもの、さらに先ほどの三歳児のように肥満ハイリスク群や、糖尿病やガンなど各種病気の罹患率といった医学的なものも含まれます。あらゆる差異が試験の点数とか売り上げとか勝率といった数字に置き換えられて評価され、また医療的に管理されていくことになる。
森崎 労働者という理念はアスリートとしてほぼ編成を終えていると思うんです。1%による99%の収奪を民主主義の理念で指弾してもまったく無力で無効です。それは多くの人たちの日々の実感としてあると思います。私欲によって高度な自然はますます強化されていく。心身が健康であることを善とし、損なわれた身体の健康を矯めていくことを拒否するのは容易ではありません。健康を善とする観念は高度に支配的で、心身の状態をビッグサイエンスで絡め取ります。しかも医療の仕組みはまるでブラックボックスのようになっています。やがて誕生から死にいたるまでの医学的に精密な工程がビットマシンによって計量されるようになるでしょう。ハイテクノロジーをビットマシンと結合したゲノム編集に象徴すれば、これまでに存在したことのない自然を生産することは充分に可能だと思います。生が同一性へと限りなく収斂していくなかで、人間という概念は再定義されていく。ぼくたちの生はそこへと漸近していくと思います。
片山 一人ひとりがアスリートとして計量されていくことによって、生は貯蓄や年収、あるいは遺伝子やゲノムといった記号に近づいていくということですね。生きることの意味がお金と健康だけになっていく。そうした傾向はいろいろなところで顕在化しています。「今だけ金だけ自分だけ」が、アスリートの世界では唯一のリアルってことでしょうか。「ここはおれの日向だ」という人間の私性が剥き出しになっていくなかで、こうした傾向はさらに強まりそうです。喋っているうちに絶望的な気分になってきました。自分で自分の首を絞めてどうする。
森崎 民主主義が長い歴史のなかで練り上げられてきた、人間の手にした最上の理念であることは間違いありません。その最上のものの底が抜けているところに、世界の行き詰まりの深刻さがあります。デモクラシーという理念の根本的な欠陥は、人格という同一性を基準にしていることです。同一性でぎりぎり来られたのは、民主主義というポリティカル・コレクトネスまでだったと思うんです。たしかに偉大な革命でしたが、剥き出しの生存競争に曝されて、分に応じてらしく生きることを受容するしかない、それを自然とするしかないところまで追い込まれている。ポリティカル・コレクトネスや民主主義では、結局のところ強い者が勝って、そのおこぼれを貧しい者がもらう、このあり方は変わらない。それを変えようと言っているのです。
片山 人間という概念が再定義されていくのに伴い、民主主義も再編されていくってことですね。民主主義の中身である「自由」や「平等」が再定義されていく。ユヴァルが言うように、自由も平等も共同幻想で、いま最大最強の共同幻想は貨幣とテクノロジーだから、それに沿うものとして自由も平等も定義し直される。民主主義はシステムの属躰となって延命する。森崎さんの言われる属躰民主主義ですね。
森崎 ユヴァルなんか、あからさまに言っているじゃないですか。幸福は定義できないけれど、快感は生物学的に定義できるから、アメリカ独立宣言の「生命、自由、幸福の追求」は「生命、快感の追求」に書き換えるべきだって。馬鹿だなと思います。自然を対象としたときの真理と、人間の営みを対象としたときの真理はまったく次元が違うのに、そのことを無視して自然科学の知に人間を馴致しようとする。『流れとかたち』のエイドリアン・ベジャンも、『利己的な遺伝子』や『神は妄想である』のリチャード・ドーキンスも同じです。浅はかとしか言いようがない。生を可視化して機能的に論じる。もともと自然科学とはそういうものですが、そこで人間を定義しようとすると、ぼくたちの生は非常に縮減されたものになってしまう。生の固有さなどあろうはずがありません。
片山 とはいえ、現状はユヴァルが言うようなところへ向かっています。「自由・平等・友愛」という近代理念は、二進法的な科学知に取って代わられようとしている。西欧化した近代社会に登場した「人間」が終焉しようとしていると言ってもいいと思います。60年代にフーコーが予言したことが、まさに現実になろうとしているわけですが、そのフーコーが人間の終焉を言ったあと長い思想的な漂流をつづけ、最晩年になって「主体」や「真理」の問題を扱っていることは興味深いですね。森崎さんも最近のブログで取り上げられているところです。

 最後に私が強調しておきたいのは以下のことである。すなわち、真理が創設される際には必ず他性の本質的な措定があるということだ。真理、それは決して、同じものではない。真理は、他界および別の生の形式においてしかありえないのだ。(『真理の勇気』慎改康之訳)

 筑摩書房から出ている講義集成の最終巻に入っているものです。1984年3月28日にフーコーはコレージュ・ド・フランスで最後の講義を行います。その草稿の最後の部分ですが、ここは実際の講義では話されていないんですかね。
森崎 そうだと思います。
片山 この講義から三ヵ月後の6月25日にフーコーは57歳で亡くなっていますから、ほとんど遺言みたいなものです。真理は他性によって措定されるとか、真理は同じものではないとか、非常に示唆的なことを言っている気がします。もう一つ、こちらは思考集成の最終巻に収録された「自由の実践としての自己への配慮」というインタビューです。

 主体は実体ではありません。それはひとつの形式であり、とりわけこの形式はつねに自己にたいして同一になることはないのです。投票に行ったり議会で発言したりする政治的主体として自己を構成する場合と、性的な関係において欲望を実現しようとする場合とでは、あなたはあなた自身と別のタイプの関係を持っているのです。異なった主体の形式のあいだに関係や相互干渉があることもあるでしょうが、同じタイプの主体を目の前にしているわけではないのです。ひとは自己とのあいだに、それぞれの場合ごとに、異なった形式の関係を働かせたり確立したりするのです。そして真理のゲームと関係する、主体のさまざまな形式の歴史的構成にこそ、私は関心を持っているのです。(廣瀬浩司訳)

 インタビューは1984年1月20日に行われていますから、まさに最期のフーコーです。ここでは主体は実体ではないとはっきり言っています。では何か? 真理と同じように他性、他なるものによってもたらされるものだということでしょう。
森崎 政治の場での自己と性的な関係の場での自己は同じタイプの自己ではない。これだけなら吉本隆明さんの対幻想と共同幻想は次元が違うということで済んでしまいますが、最期のフーコーがそんなことを言おうとしたとは思えません。晩年のフーコーは「倫理」や「道徳」ということをさかんに口にするようになるでしょう。人間の終焉や主体の解体を言っていた、あのクールなフーコーが倫理や道徳を語りはじめる。ちょっとぎょっとしたんですよ。いったい何が起こったんだろうって。
片山 たしかに彼らしくない言葉ですね、倫理も道徳も。
森崎 多くの人がそう感じたと思います。そしてフーコーは突然亡くなってしまう。ぼくのような読者を当惑させたまま。57歳ですか。
片山 若いですね。当年とって58歳のぼくは、まだはじまってもいないという感じなのに。
森崎 フーコーの思想の特徴は徹底した当事者性ということにあると思います。彼自身の生の感触を普遍として語ろうとしている。だからフーコーが最期に到達した言葉の場所を、知識として読み解くことは不毛だと思うんです。
片山 よくわかります。
森崎 広く知られているようにフーコーはゲイでした。そのことに若いころから悩みつづけ、D・エリボンの伝記によると自殺未遂みたいなこともしている。フーコーは自分の性の体験を普遍的に語ろうとして、ヨーロッパの知を考古学的に読み解き、通念の性にまつわる規範も含めて知の編成を組み換えようとしたと思うんです。
片山 『狂気の歴史』や『性の歴史』などはまさにそうですね。
森崎 フランスは性の規範が厳しくて息苦しいので、スウェーデンとかチュニジアとか、あちこちの大学の先生になって母国を離れようとしているでしょう。
片山 エリボンの伝記によると、ポーランドやドイツにも行っていますね。日本にもよく来ていたようですし、コレージュ・ド・フランスの教授になってからも、毎年のようにアメリカの大学に教えに行っています。ニューヨークやサンフランシスコのゲイ・コミュニテイが気に入っていたらしいです。
森崎 世界のどこにも安息の地はなかったと思うんです。だから心の底から安堵する言葉をつかもうとしたのではないでしょうか。『言葉と物』で人間の終焉を言ったものの、じゃあ自分は何者だということになった。それがフーコーの長い漂流の意味だった気がします。そして死の直前につかんだものが、主体は実体ではない、真理は他性によってもたらされるという生の知覚だった。その知覚を生きる時間が彼には残されていなかったけれど、最期にじつに味わい深い言葉を残してくれたと思います。これまでに何度も引用したところですが、あるインタビューのなかで彼は、「誰かの創造的活動をその人が自分自身に対して持つ関係のあり方のせいにするのではなくて、その人が自分自身に対して持つ関係のあり方を、その人の倫理的活動の核にあるような創造的活動に結びつけてみるべきかもしれないんです」(「ひとつのモラルとしての性」『現代思想』1984年10月号浜名優美訳)と言っています。おれは人間ではなく性だ、と最期のフーコーは言いたかったのではないでしょうか。彼が「倫理的活動の核」と言っているものは、ぼくの「内包自然」に相当すると思います。根源の性や根源の二人称が自己に先立って存在するということです。人は根源において二人であり、そこから倫理や道徳や主体があらわれる。彼が倫理や道徳的主体と言うとき、それは主体の彼方からの来襲のことを指しています。ぼくの内包の感覚とそっくりです。他性によってもたらされる主体という生の知覚を、彼は間違いなくつかんでいる。主体とは性だというところに、最期のフーコーはたどり着いている。見事に当事者性を貫いたと思います。フーコーが最期に残した言葉は、ぼくの気づきと共鳴します。どのような時代に、どこで、どのように生まれ育とうと、それぞれの精神風土やローカルな言語の違いを超えて、人は縁があれば同じようなことを考えるんだなと思いました。
片山 なるほど。
森崎 フーコーの言葉をぼくの「内包」という考え方に引きつけてみると、こういうことではないかと思います。人は根源的に〔ふたり〕であるが、この〔性〕を身に引きうけて生きるとき同一性が生じ、同一性は根源の〔ふたり〕に遅れてつねに到達する。そのあり方が過誤の人類史を生んだのだと。過誤の歴史において、人間は終焉するしかない。しかし人間は性として再生させることができる。人間は終焉するのではなくて、人間という概念の幹を太くして、さらに先へ行くことができる。
片山 最期のフーコーが言っている「主体」とは、孤立した自我や自己ではなくて、ともにある主体、ともに生きる主体だったと思うんです。この「ともに」に男女はありません。生者と死者の区別もありません。人と動物の違いもない。猫だって犬だって「ともに」のなかに入ってくる。そういうところにフーコーは「主体」をもっていっている気がします。あるいは「性」の概念を思い切り拡大している。
森崎 そうだと思います。解体された主体は領域化されたのだと思います。性的な関係にある自己と共同的な場での自己は、自己にたいして同一になることはない。この同一ならざるところに、実体化できない主体が存在する。それは他性によってもたらされるものであり、真理は同一なものではない。真理は生の別の形式においてしかありえない。フーコーは一つの生の技法を発明したのだと思います。

 私が驚いているのは、現代社会では、技芸(アート)はもっぱら物体(オブジェ)にしか関係しないという事実です。技法が美術家という専門家だけが作るひとつの専門になっているということですね。しかしなぜ各人めいめいが自己の人生を一個の芸術作品にすることができないんだろうか? なぜこのランプとかこの家が一個の美術品であって、私の人生がそうではないのか?(「ひとつのモラルとしての性」同前)

 このテキストのもとになっているインタビューは1983年4月にカリフォルニアのバークレー校で行われたものです。『思考集成』のⅨとⅩにも「倫理の系譜学について」として収録されており、かなりの異同が見られるのですが、引用の箇所は三つのテキストともほぼ同じです。フーコーの発言はぼくの「内包自然と総表現者」のイメージと重なります。生を作品にしうる、生きていることは作品なんだということを、フーコーは一つの生の技法として言っている。それは世界がいかにアスリート化しても、けっして収奪されたり記号化されたりすることのない生です。
片山 フーコーが構造主義的な文脈で「主体の解体」や「主体の消滅」を言ったころに、ロラン・バルトが「作者の死」ということを言っています。森崎さんが提起された「総表現者」という概念を説明する上で参考になると思うので、ちょっと触れてみます。バルトが「作者の死」ということで言おうとしたのは、「読者の誕生」ということだったと思います。ここでの話の文脈に引き寄せると、「表現者」ということだと思うんです。夏目漱石の小説が百年間も読まれつづけているのは、同一の知が賞味期限を失わずに持続しているということではありません。その時代、その時代に、一人ひとりの読者が自分なりの読み方をしている。それが百年間読まれつづけているということの意味です。作品が誰にたいしても同一のものしか示さないなら、長い年月に渡って多くの読者に読まれるということはありません。そこが文学と科学の違いだと思います。千年、二千年と読み継がれている文学作品は幾つもあります。『聖書』もそうですし、ホメーロスやプラトンの著作などもそうです。『イソップ物語』のもとになった寓話は二千五百年ほど前に成立したと考えられています。千年、二千年前の科学は、科学史としてしか読めません。現役ではなくて過去の歴史です。同一性の知はあっという間に過ぎてしまう。時代によって収奪されてしまう。しかし文学作品は、数千年の時間を経て現役として読まれつづける。そこには表現者としての無数の読者の参与があると思うんです。一人ひとりの読者が、様々な読み方をしながら、一つの作品をつぎの世代に受け渡している。読者は表現者である。読書はきわめて創造的な表現と言えます。
 このように表現の概念を広げていくと、誰かを好きになるのも、猫を飼うのも表現になる。たとえば映画『タイタニック』でレオナルド・ディカプリオ扮するジャックが、船の上で出会ったローズに恋をする。このときローズは、ジャックの眼差しによってはじめて可視化されたと思います。少なくともジャックのようにローズを見た者は、それ以前にはただの一人もいなかった。すると人を好きになることは、一つの創作であり創造である。ジャックがいまその場に、誰よりも大切な人として、ただ一人のローズを誕生させ、出現させたわけです。同時にジャックは、ローズその人を「誰よりも大切な人」として生きる者として、この世界にはじめて誕生し、出現したことになる。この相互性が「表現」だと思うんです。まさにフーコーが言うように、表現者は他性によってもたらされるところの、実体ではない主体です。
 もっともっといろんなケースを考えていくことができると思います。何かを食べて美味しいと感じるのも、何かを見て美しいと感じるのも、誰かの死を悲しむのも、その人だけの固有の感じ方、感情であるはずだし、大切な人や猫の死は、その人に固有な「悲しみ」という表現をなしている。「表現」の概念をどんどん広げていくと、生がそのまま作品である、生きていることはまるごと表現であるという「総表現者」のイメージが少しずつ鮮明になってきます。ぼくたちは誰もが総表現者を生きることができる。どんな状況にあっても絶望することなく、負けても勝っている総表現者の生を生き抜くことができる。ところで、こうした表現の素になっている人間的な感情、感受性、意識のようなものは、どうやって生まれてきたのかってことですが。(Part 5につづく)