『歩く浄土』 Live in FUKUOKA 2017.4.14 (Part 5)

5 圧倒的な善として人間ははじまった

片山 森崎さんはブログのなかで繰り返し、「おのずからなる善」「おのずからなる絶対的な善」ということを言っておられます。わかりやすい例をあげると、先ほども触れた映画『タイタニック』のなかで、恋人のローズを助けようとして自らは冷たい氷の海に浸かった状態のジャックが、力尽きる間際に「きみが生きろ」と言い残す場面ですね。誰に強制されたわけでもないのに、そういうことが起こる。だいぶ前のことですが、山手線の駅でホームから落ちた酔っ払いを助けようとして、日本人のカメラマンと韓国人留学生が進入してきた列車にはねられ、三人とも死亡した事故がありました。三人はたまたまそのときホームに居合わせたというだけで、まったく面識がなかったそうです。ここでも同じことが起こっていると思います。まさに恐ろしいほどの自由のなかでなされる絶対的な善です。この「おのずからなる絶対的な善」を起点に人間を考えようじゃないか、世界をひらこうじゃないか、というのがぼくたちの試みだと思うんです。
 たしかに1%と99%という自然もある。奪い合う自然、適者生存という自然、それが世界を覆っているように見える。しかし人間のなかには、『タイタニック』のジャックみたいに「きみが生きろ」という自然もある。思わず身が動いて見ず知らずの他人を助けるために命を落とすという自然もある。あとから美談になるほど稀な事例ですけれど、たしかにある。誰の身にも起こりうることとしてある。この自然を、森崎さんは「内包自然」と呼んでおられると思います。ぼくたちの三年半に及ぶ討議のなかで、「還相の性」「根源のふたり」「根源の二人称」といった新しい言葉も生まれてきました。少しずつ「内包」が薫りはじめている、風味をもってきている気がします。この薫りや風味が、多くの人たちに伝わっていけばいいですね。
森崎 ぼくは伝わると思うんです。手渡しで一人ずつということかもしれないけれど、伝わる人には伝わると思います。なぜなら、それは「ある」からです。ないものをあると言っているわけではない。あるからあると言っているので、「ある」と言いつづけることが大切だと思います。
片山 無限小の可能性として、誰のなかにもあるわけですね。無限小かもしれないけれど、70億の人類すべてにあるわけだから、非常に大きな可能性とも言える。
森崎 腹が減ったら食べるというのは、わかりやすい自然です。しかし腹が減っていても、相手の人に食べていいよと言うことがある。あるいは一緒に食べよう、分けようという自然もある。「きみが生きろ」という場所が、誰のなかにもあるんです。それこそ無限小の可能性としてある。自分の身を犠牲にして「きみが生きろ」というのは、自己同一性からすれば絶対の矛盾です。それが人間のいちばん根っこのところにあるから、世も末だと言いながら、これまで人間はつづいてきていると思うんです。それがあるかぎり、「いまだけ金だけ自分だけ」という世界の条理もたいしたことはないと言い切れる。
片山 生物の二大本能は個体維持と種族保存と言われますが、動物の場合も、利他的な行為というのはわりとよく見られるらしくて、ミツバチやアリのワーカーとか、自分の子ども以外にも乳を与える雌のライオンとか、孤児を育てようとするチンパンジーとか、でもそうした動物の利他行動はほぼすべて血縁性によって説明されます。つまり群れや種を通して最終的に自分に有利な帰結をもたらすようにプログラムされている、ということで個体維持の本能は貫徹している。したがって純粋な意味での利他行動は存在しない、というのが定説になっているようです。ところが人間の場合は、この本能がしばしば破られるというか、「個体」をはみ出してしまうところがある。
森崎 だって日本人のカメラマンと韓国人留学生が、ホームから落ちた酔っぱらいを助けようとして命を落としたことは、血縁性なんてなんの関係もないじゃないですか。
片山 そうですよね。
森崎 ジャックとローズだって、数日前までは赤の他人でしょう?
片山 タイタニック号は出航して三日目くらいに沈んじゃいますからね。その間に、ジャックは素早くローズの心をとらえ、自殺しようとしていた彼女を思いとどまらせ、婚約者から彼女を奪い、自動車のなかでちゃっかり愛を交わして、最後は自らが犠牲となって冷たい海に沈んでいく。数日前までは見ず知らずだった女性のために。
森崎 家族だってそうじゃないですか。かならず一世代ごとに見ず知らずの赤の他人が組み込まれている。ジャックとローズにしても、お互いに漂白者、バガボンドですよ。バガボンド同士が船の上で出会って「きみが生きろ」となる。片山さんの小説のなかでは、高校生のアキと朔太郎が最終的に実の親子よりも深い関係をつくってしまう。こんなふうにしてペアが生まれ、そのペアが核となって家族は何万年も途切れずにつづいてきている。これ以上に不思議なことはありませんよ。
片山 たしかに不思議です。その不思議なことを、誰もが易々とやってのけている。
森崎 そこがぼくは可能性だと思うんです。思わずそうせずにはおれない、利己的なあり方からもっとも遠くて深い場所からの応答を生きてしまう。ヴェイユは「匿名の領域」と名づけたと思います。ぼくは内包存在と名づけました。人間はもともと内包存在であり、人間の個的な存在は内包存在の同一性的なあらわれに過ぎないと言いつづけてきました。この点さえ押さえておけば、どんなふうにも歴史はつくりうる。いかようにも世界は構想できると思います。
片山 人間は根源において内包存在である。先ほどの森崎さんの言い方を借りれば、利己的なあり方からもっとも遠くて深い場所からの応答として、人間の個的な存在、「自分」や「私」がはじまったということですね。
森崎 これほど愚かな人間が一万年もつづいているのは根源に内包があるからだと思うんです。名づけようもなく名をもたぬこの根源の場所だけが、憤怒に駆られた同一性の派生態である世界の無言の条理を無化することができる。なぜなら、それは圧倒的な善だから。思わず身が動いて赤の他人を助けようとするほどに、また恋人の命を救うために自分は冷たい氷の海で息絶えることを、義務でも倫理でもない自由な意志として選択してしまうほどに、人間は圧倒的な善なのです。これを善と名づけずして、何を善と言うのか。根源において人間は圧倒的な善としてはじまった。あとは枝葉末節である。だから大丈夫だ。いつでも間に合っている。その根拠は、わたしよりも近くにいるあなたが誰のなかにも内挿されているからです。すべての時代を貫通して、わたしよりも近いあなたは常に居つづける。特別な人ではなく、誰のなかにも内挿され、内在している。それを取り出そうじゃないか。なぜなら、あるから。存在しないことの不可能性として、それはリアルに存在している。ただ表現を与えるだけだ。ありえたけれどなかったものとして、現にあらしめる。誰のなかにも無限小のかたちであるものを、表現として取り出そうではないかということなんです。
片山 そこで内包存在というものを、もう少し感覚的につかむために、ちょっと歴史的な文脈に話をもっていきたいと思います。つまり進化ということですけど、いったいどうしてヒトは内包存在になったのか。哺乳類や霊長類のなかから、おそらくヒトだけが内包存在になって人間化してしまったのはなぜなのか。これにたいする答えは「偶然」ということでいいんでしょうか?
森崎 ニック・レーンが最新の著作『生命、エネルギー、進化』のなかで、原核細胞から真核細胞が誕生するシナリオは、この惑星で40億年の進化の歴史のなかで一度だけ起こったと言っているでしょう。そのことを彼はプロトン勾配という概念を使って読み解こうとしている。
片山 難しい本ですが、ユヴァルの『サピエンス全史』と同じくらい面白かったですね。深海のアルカリ熱水孔で無機物が有機物になり、生命の歴史がはじまるわけですが、そのころ誕生した細菌の仲間は、以後20年億年くらいはほとんど進化しなかった。ところがいまから15~20億年前に、細菌と古細菌の内部共生によって真核細胞が生まれた。生命40億年の歴史でただ一度だけ起こった、この奇蹟的な出来事によって、有性生殖やふたつの性、死を免れない個体と不死の生殖細胞といった不可解な特性が真核生物に備わり、これらの要素が揃うと、あとはだいたい自然選択みたいな進化論の考え方で説明がつくってことですね。
森崎 同じようなことが、ヒトが人間になる過程でもう一度起こったと思うんです。原核細胞から真核細胞が誕生したという奇蹟のあとに、もう一回驚異が起こったのではないか。そのことを内包と名づけてもいいように思います。
片山 なるほど。ぼくはニック・レーンの本を読んで、ダーウィンの『種の起源』とヘーゲルの『精神現象学』に互いによく似ているなと思ったんです。ヘーゲルは精神の現象学を「意識」からはじめていますよね。最初に意識を置いてしまうと、あとは宗教から国家まで、ほとんど一直線というか自然過程として必然的だったと思うんです。ダーウィンの進化論も、有性生殖や個体死をもつ生物を前提にすると、自然選択や自然淘汰といった進化のメカニズムが働いて、だいたい現存している生物までたどり着いてしまう。しかしヘーゲルもダーウィンも、はじまりの不明を不問にしている。そこは飛び越していると思います。生物はなぜ性を持ったのか、どうして有性生殖や個体死という特性が備わったのか。同様に、ヘーゲルは意識の発生についてまったく答えていません。その「はじまりの不明」というところを、森崎さんは内包や根源の二人称という「表現」としてひらこうとされている、ということでしょうか?
森崎 そうだと思います。
片山 そこで先ほどの質問に戻るのですが、すると、やはり偶然に、多分にアクシデンタルに、ヒトは内包存在になった。そこから人間が生まれた、ということですか?
森崎 それは理念というよりも、ぼく自身のリアルな知覚なんです。苛烈な体験のただなかで熱い自然があることを知覚し驚嘆した。その驚きをなんとか言葉にしたくて内包論をつづけてきたように思います。生を引き裂く自然と熱い自然を、あたかも一身で三生を経るようにして体験し、あるものがそのものに等しいという当たり前は、あるものに先立つ固有な他者によぎられることなしにあらわれないと考えた。あるものが他なるものに重なるという驚異があるから、事後的にあるものがそのものに等しいということが起こる。根源の性を分有することではじめて自己の各自性があらわれる。このリアルな生の知覚、自分の体験は、普遍的にも言いうると考えたのです。
片山 すると一万年なら一万年、表現として言っているわけですから正確な年代はいいんですけど、とにかく一万年ほど前に人間と言われている生き物に一回だけ起こった驚異、それは森崎さんのなかに起こった驚異だし、誰のなかでも起こっている驚異であると。
森崎 そうです。この驚異によぎられたものを人間と考えようではないか。ある種の霊長類が根源の二人称によぎられて、その驚きを自己という心身において発出した。その驚異は、ぼくが体験した驚異と同じだと思うのです。まさに神秘であるとしか言いようがない。善悪未生の圧倒的な善が驚きとともに発語された。ここに人間の意識の起源があり、この意識を分有することにおいてヒトは人となった。そういうふうに人間を知覚しようではないか。するといつでも間に合う。一万年前のリアルさ、明晰さ、迷妄はいまと何も変わらない。長くて百年の生のなかに、一万年が凝縮されている。
片山 お話を聞いていて、ぼくは解剖学者・三木成夫の仕事を思い浮かべました。彼は原初の細胞が生まれてから、今日までの約30数億年の長い進化の歴史を幻のように再現するのが、「胎児の世界」だと言っています。三木さんが残した美しい言葉を一つだけ紹介しておきます。

 このように見てくると、人間のからだに見られるどんな〈もの〉にも、その日常生活に起こるどんな〈こと〉にも、すべてこうした過去の〈ものごと〉が、それぞれのまぼろしの姿で生きつづけていることが明らかになる。そしてこれを、まさに、おのれの身をもって再現して見せてくれるのが、われらが胎児の世界ではなかろうか。(『胎児の世界』)

 エルンスト・ヘッケルの「個体発生は系統発生を反復する」をベースにしているのでしょうが、三木さんの言葉には宮沢賢治の詩に相通ずる透明感があります。
森崎 それは三木成夫が人間の身体を解剖学的な説明ではなく、「遠」を感得するようにして表現のレベルまでもっていくことができているからだと思います。
片山 そうですね。三木さんの本のなかには幾つも印象的な記述があって、受胎して36日くらいの母親の顔は、目の焦点が定まらず、遠い目になっていることが多い、どこか遠いところをぼうっと見ている。そのころお母さんのお腹のなかの胎児の顔には、爬虫類の面影があらわれる。つまり魚から両生類を経て、いよいよ陸生の段階に差しかかっている。母親の遠い目は、この3億年前の上陸のドラマに向けられた眼差しなのだ、と三木さんは言っています。ほとんど叙事詩ですね、彼の解剖学は。
森崎 三木成夫はどこかで「胃袋とペニスに、目玉と手足の生えたのが動物。その上に脳味噌の被さったのが人間」だと言っています。なるほど、と思うんです。こういうふうに人間を定義すると、太古の面々はぼくたちのすぐ傍らにいることになります。たしかに生物学的な体制は、基本的なところではそれほど変わらないはずですからね。ネアンデルタール人だろうと、クロマニヨン人だろうと、縄文人だろうと、身体の体制としてたいした違いはない。すると食と性にかんする人間の基本的体制は、先史時代であってもほぼ同一のものであったと考えられます。三木成夫の知見にエマニュエル・トッドが『家族システムの起源』のなかで言っていることを加えると、精神の古代形象がどういうものであるか、かなり見通しがよくなります。
片山 ぼくはまだ読んでいないんですけど、どんなことをトッドは言っているんですか?
森崎 非常にシンプルに、家族システムの古代的なかたちは核家族だったと言っています。家族の起源を古代まで遡ると核家族だったということを、彼は理念的にではなく、膨大な資料を採集して読み解く作業のなかから、いわば帰納法的に論証しているんです。内包論では精神の古代形象の初源は、人は根源において〔ふたり〕だと考えてきました。根源の性を分有する、そのかたちが家族であると。トッドのアルカイックな家族と内包論の根源の二人称が、ここで出会っているような気がして興奮しました。
片山 ぼくたちは普通、核家族というものを近代の産物だと考えていますからね。日本の場合だと、大家族制が崩れて核家族化が進むのは戦後の現象だと説明されます。
森崎 初期人類が核家族であったという知見には意表をつかれました。どうやら彼らは比較的小さなバンドで生きていたらしい。そうすると先史時代の精神の古代形象は、ぼくたちと変わりない身体の体制のまわりに幾つかの核家族が集まった心象風景を想定できることになる。
片山 なんだか宮沢賢治の詩のように時間が透明になって、遠い友だちであるユリアとペムペルがあらわれるような気がしてきます。

 ユリアがわたくしの左を行く
 大きな紺色の瞳をりんと張って
 ユリアがわたくしの左を行く
 ペムペルがわたくしの右にゐる
                                 (「小岩井農場」パート九)

 この詩のユリアとペムペルのように初期人類を考えればいいわけですね。すると内包存在が視覚化されてくる気がします。前にも森崎さんは、そういう話をされたことがありましたね。太古の人が自分の恋人か連れ合いか、そういう言葉もないでしょうけど、とにかく仲良くなった二人が一緒に歩いていて、片方が崖から落ちた。断崖絶壁で助けられない。どうやっても助けられない。いつも一緒にいた人が崖下で苦しんでいる。そのときに「痛い」とか「悲しい」という感情が沸き起こった(連続討議『歩く浄土』第二回「性と精神の古代形象」を参照)。この二人、ユリアとペムペルだったのかもしれない……。
森崎 いつも一緒、どこでも一緒だった者が苦しんでいる。そうして発せられた「ああ」という有節音は、はじめて意味として表出された。ぼくの言葉で言うと、〈浄土〉として〔内包的〕に表出されたことになります。
片山 花巻農学校で先生をしていた宮沢賢治は、生徒たちと野外実習に出ているときなどに、突然飛び上がって「ほ、ほうっ」と叫ぶことがあったそうです。畑山博が『教師 宮沢賢治のしごと』という本のなかで、賢治の教え子たちに取材したことを書き記しています。

 ほほっ、ほほうというのはね、賢治先生の専売特許の感嘆詞でしたよ。どこでもかまわず、とつぜん声を出して、飛び上がるんです。
 くるくる回りながら、足ばたばたさせて、はねまわりながら叫ぶんです。
 喜びが湧いてくると、細胞がどうしようもなくなるのですね。身体がまるで軽くなって、もうすぐ飛んでいっちまいそうになるのですね。

 まさに太古の人が初源の意識とともに声を発するシーンを見ているようです。宮沢賢治の傍らには、いつも一緒、どこでも一緒の存在として、ユリアとペムペルのような初期人類がいたのかもしれない。彼らとともに生きていたのかもしれない。すると賢治の得意な擬音(オノマトペ)は、初期人類が環界の音をはじめて意識化したようなものではないか。『風の又三郎』の「どっどど どどうど どどうど どどう」とか、そんな感じがします。人類の発生点にいる人っていうか、内包自然を生きている人! ……だったのかもしれない。そういう視点が、たとえば吉本隆明の宮沢賢治論にはありませんね。
森崎 吉本さんにかぎらず、宮沢賢治の作品は、まだ誰によっても本当には読み解かれていないと思います。彼の作品は、内包自然という知覚の場所から読み解かれることを待っていると思います。
片山 宮沢賢治については、まだまだ言ってみたいことがありますが、とりあえず先に進みます。するとヘーゲルが「はじまりの不明」として残した意識の起源は、初期人類が根源の二人称という驚異によぎられたことにある。そう言ってしまっていいですか。
森崎 いいと思います。なぜ発語したのか? いつも一緒、どこでも一緒、この不思議を心身において享受する。そのとき発語する以外にない。ここに意識の起源があると思うのです。ヘーゲルにもマルクスにもはじまりの不明がありますが、彼らの影響を強く受けた吉本隆明の言語論も、同様のはじまりの不明を残しています。『言語にとって美とはなにか』のはじめのほうに、有名な「意識のさわり」説が出てくるでしょう。
片山 狩人がはじめて海を見て、思わず「う」という音を発したというやつですね。
森崎 吉本さんの言語論では、動物が吠えたり鳴いたり唸り声をあげたりするように、ヒトも一種の反射として声を発していた段階があったと考えます。その反射がしだいに意識のさわりを含むようになり、さらに発達して自己表出として指示機能をもつようになった。つまり海を見て反射的に「う」という音を発していた段階から、「う」という有節音が海という対象の直接性から離れて象徴的(記号的)に指示する機能を獲得する。この段階で、はじめて「う(海)」という有節音は「言語」と呼ばれる条件をもった、というふうに説明されます。要約すると、以下のようになります。

Ⅰ 叫び声〈う〉→反射
Ⅱ 〈う〉という有節音(指示音声)→意識のさわり
Ⅲ 〈海〉→自己表出(象徴的な指示)

 Ⅰの段階は動物的な反射だと吉本さんは言います。ではⅠの段階にある前人間的な人類は、なぜⅡの段階では意識のさわりを覚えたのか。哺乳綱霊長目から分岐したある人類が、ある時期Ⅰの段階にあったことは了解できます。しかしⅠからⅡへの飛躍、つまり人間的な意識をもつことのなかった人類が、なぜ意識のさわりをもつことになったのか。そもそも「意識のさわり」を覚えるとはどういうことなのか。吉本さんの説明では、「意識のさわり」というのはただの電子ノイズです。人間的な意識の起源については、まったく説明されていません。
片山 たしかに、そうなったからそうなったというふうにしか読めませんね。説明が非常にフラットというか、『共同幻想論』で自己幻想、対幻想、共同幻想というふうにスライドさせてくときの手つきと、よく似ている気がします。
森崎 ぼくはⅠとⅡのあいだには、目のくらむような裂け目があると思うんです。人間だけがこの裂け目を飛び越えた。どうやって乗り越えたかというと、表現として言うのですが、Ⅰの段階からⅡの段階に移行するとき、ある種の哺乳綱霊長目が根源の二人称を知覚した。このとき人類が生まれたのだと思います。先ほどの例でいうと、高熱でうなされる子をまえにしてさすってやることしかできずにいるとき、天を仰ぐようにして発せられた声は、すでに動物的な反射ではなく、吉本さんの言う「意識のさわり」とともにある人間的な言語であったはずです。あるいは空腹に耐えて何日もさまよい歩いたあと、ようやく食べ物を手に入れる。棍棒か何かで仕留めた獣かもしれないし、たまたま見つけた果実かもしれない。それを恋人か連れ合いか子どもか、いつも一緒にいる人とともに食べたとき、「ううっ」という唸り声は、「うまい」とか「美味しい」といった初源の意識とともにあったはずです。動物的な段階にあった反射の応答は、根源の二人称に促されて内包的な意識として表現された。〔と共に〕あることが〔充たす〕なにか、それが同一性の起源だと思います。
片山 つまり人間だけがもちえた同一性、「自分」とか「私」といった意識は、はじまりにおいて圧倒的な善であったはずだ。なぜならそれは〔と共に〕という場所からはじまったのだから。
森崎 シモーヌ・ヴェイユが言っているように、善悪が同時に生まれたとは思えないんです。たとえば彼女がつぎのように書いていることに、ぼくは深く共鳴します。

 二つの善がある、どちらも同じ名称をもつが、根本的に相異なっている。悪の反対としての善と、絶対としての善と。絶対というものにはその反対がない。相対は絶対の反対ではない。相対は絶対から派生したものであり、両者の関係を交換することはできない。われわれが欲しているのは絶対的な善である。われわれが到達できるのは、悪と相関関係にある善である。われわれはそれをわれわれが欲している善であると思いあやまり、そこにおもむく。(『重力と恩寵』渡辺義愛訳)

 人間は善なる意識とともに発生したはずだ。善とともにヒトは人として表現された。意識のもっともはじまりにあるもの。それは「と共にあること」が満たす何かだと思います。ぼくはヴェイユが渇望した絶対の善は歴史の概念としても言い得ると思うんです。ぼくの言葉では「還相の性」がヴェイユの絶対の善にあたります。この絶対の善が棲まう場所を、ぼくは内包自然と名づけました。それが誰の生をも根柢のところで支えている。
片山 前出の畑山さんの本のなかに、当時の教え子の一人がメモとして残した賢治の話が出てきます。それによると「善は脳の内部に無限に潜入する。悪は表面意識に止まり、内部に潜入しない。表面意識部に止まり善の内部への潜入を妨害する。善は無限に潜入する。善の潜入するほど無意識は無限に発展する」みたいなことを、賢治は生徒たちの前で喋っていたらしい。これって、ほとんどヴェイユの「絶対の善」じゃない?
森崎 ぼくたちは歴史について、たとえば野蛮・未開・原始という先史時代から歴史時代に入ったという通念をもっています。このとき悠遠の太古は過ぎた時代であり、いま現代文明社会を生きていることが前提とされています。
片山 普通はそういうふうに歴史を年表みたいなものとして考えていますよね。
森崎 ぼくは根深い思考の慣性がここにあると思うんです。歴史も生も時間の経過とともに過ぎていく。だが果たして時間は流れていくのだろうか。たしかに横に流れていくように知覚される。それは公理のようなものとしてある思考の慣性に過ぎないのではないだろうか。空間的な概念としてある歴史を縦に表現すればどうだろう。一種の知覚的な操作として、歴史の時間を縦に直立させる。すると歴史年表のような時代区分を内在的に表現することができる。気づくと簡単なことです。植物には維管束があり、光合成をした産物や水がそこを行き交い、栄養された細胞たちは周辺に押しやられ、樹皮や樹肉となり年輪を刻みます。比喩的に言うと、植物の真芯にある生成の源が根源の二人称ということになります。人間の生や歴史の真芯に根源の性があり、人はいつもこの根源の性を分有するという生存の形式で生きている。誰の、どんな生であっても、その生に人類一万年の、あるいは数百万年の、もっと言えば意識化できない生命発生以来の記憶が内蔵されている。一人ひとりの人間の生涯が人類史そのものであると言うことができる。
片山 つまり一人ひとりの人間の生涯のいちばん根柢に、「根源の二人称」という圧倒的な善がドンと横たわっている。ところがですね、そんなに善きものとしてはじまったはずの人間が、なぜいまこんなことになっているのか、ということを最後に考えたいのですが。
森崎 ぼくはこう思うんです。人間が自然から離陸するときに、動物としての反射行動や生存衝動を意識として巻き込んだ。動物な反射としての捕食行為みたいなものを、身体性とともに意識が巻き込んでしまった。それが人間に特有の観念の遠隔対象性の作用で、よりおぞましく残忍になったのだと思います。
片山 たしかに、いくら表面をコーティングしていても、ぼくたちの身体性はほとんど動物ですからね。性と食にかんしては、動物とあまり変わらない。
森崎 その動物的な反射や生存衝動が、たとえば戦争のような無法状態になれば、より強度なかたちで現れるのだと思います。人権やポリティカル・コレクトネスみたいなものは剥がれ落ちて、ぼくたちが精神の古代形象と呼んでいるものに一瞬にして先祖返りしてしまう。いい悪いという倫理の問題ではないと思うんです。
片山 旧約聖書のなかで神がモーゼに十戒を垂れるところがあります。殺すな、奪うな、犯すな。これをいつでもどこでも、ただちにやってしまう、という面を人間は宿命的にもっている。
森崎 そのことをなんとかしようとして、一神教の神や民主主義がつくられてきたと思います。神の下の平等は法の下の平等にアレンジされ、それを地上に降ろすと基本的人権や生存権になる。大きな成果ではあるが、ここまでしか来られなかった。そのことが行き詰まっている。一つ一つの人格に宿った私性を基本的人権や生存権といった近代的な理念でコーティングしてきわけですが、それは本当に薄い皮膜に過ぎないから、いつでも剥き出しの現実が現れる。
片山 いま世界は、確実にそういう方向に向かいつつあります。人間の欲望とか暴力とか、何もかもが剥き出しです。
森崎 でも大丈夫だ、ということをぼくたちは言いつづけている。なぜなら人間は根源において二人称であるから。わたしより近くにいるあなたが、誰のなかにも内挿されているから。これは真偽の問題ではないんです。ぼく自身のリアルな知覚として、そうだからそうだと言うしかない。ぼくは自分が特別だとは思わないから、誰もがそうだと考えるしかない。〔あなた〕が〔わたし〕より〔わたし〕の近くにいるという不思議でシンプルな情動を生きてヒトは人になった。この人類一万年なら一万年の歴史は、誰のなかにも内挿されているんです。そのことを一人ひとりが自分なりに表現すればいい。そうすれば総表現者ということで、グローバル経済とハイテクノロジーが自然過程として推し進めている人類総アスリート化という現実に勝てるんです。
片山 根源の性によぎられて、人間のなすすべての表現があるということですね。宮沢賢治の「農民芸術概論」なんかを見ると、「われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……」といった言葉に出会ってドキッとするのですが、彼はぼくたちの「総表現者」と非常に近いことを考えていた気がしますね。賢治も言っているように、これまで「表現」とされてきたもの、文学とか音楽とか絵画とか、いわゆる芸術みたいなものだけを「表現」ととらえるのでは、表現の概念が狭すぎるということになります。
森崎 むちゃくちゃ狭いと思います。思い切り表現の概念を広げる必要がある。娘がスマホで送ってくれた写真のなかで、娘の子が生まれたばかりの二つと違わない妹の顔をじぶんの腕で輪をつくって囲み、ときどき頬を撫でているものがあります。思わずそうせずにはおれない、利己的なあり方からもっとも遠くて深い場所からの応答だということが直感的にわかりました。娘の子の計らいを超えたおのずからなる応答がある。これが表現だと思うんです。人間がなしている表現とはそういうものです。
片山 ぼくたちの生そのものが、人間の根源は二人称だということを表現しているということですね。
森崎 そうです。一緒に食べよう、分けよう。これが人間の根源だと思うんです。人は根源において二人称である。それを身体と心が一つきりで引き受けるしかない。そのことをぼくは「分有」と言っています。分有ということにおいて、わたしはあなたになれる。だから絶体絶命のときも「きみが生きろ」ということが倫理ではなく、ごく自然に反射として出てくる。山手線の列車事故のように反射として身体が動き、結果的に巻き添えを食ってしまう。この善きものがあるから人間はつづいてきた。それが誰のなかにも埋め込まれている。片山さんの小説のなかでは、アキの目に映っている朔太郎が彼にとっての本当の自分であり、朔太郎の目に映っているアキが彼女にとっての自分である。そのようにして二人は生きている。お互いに、あなたがわたしになっている。すると自己は領域にならざるをえない。同一性の論理では表現できない。同一性をはみ出している。そのはみ出していることを、それぞれのやり方で表現していけばいいと思います。
 さらに言えば、人はある特定の時代を、ある生育史を余儀なく生きているのではない。自分が自分を生きるということは、累乗化された人類史を一身に生きることと等価です。なぜ等価かというと、根源の二人称を分有することにおいて、ぼくたち一人ひとりの生が自由で平等であるからです。この生の基底は太古も、いまも、これからも変わらないと思います。これ以上にリアルな平等はない。しかも自由である。根源の二人称ということがあるから、もともと自由であり平等なのだ。この生のあり方から、いったい何を奪うのか。来るべき総アスリートの時代を、ぼくたちが総表現者で迎え撃とうと言っているのはそういうことです。(了)