『新しい鳥たち』について

 最近、ときどきモーセの十戒のことを考える。ISなどによるテロが身近に報じられるようになった、ここ二年くらいのことだと思う。
 『旧約聖書』の舞台は、まさにISやボコ・ハラムみたいな「ならず者」たちが跋扈している荒野である。力に物を言わせて乱暴狼藉、非道のかぎりを尽くす。この者たちをなんとかしなければならない、ということで一神教の神が招来される。地上の何よりも強力な神が下す命令として「殺してはならぬ」「犯してはならぬ」「盗んではならぬ」といった戒律がある。そうやって非道を押さえ込もうとした。
 その後、一神教の神は、法にかたちを変えてヨーロッパを統治する原理になっていく。近代以降は、自由・平等・友愛の民主主義というジェネリック仕様で、さらに世界に敷衍されていく。その世界が、いま行き詰まっている。
 インターネットを中心とするコンピュータ・サイエンスが金融と結びついて、経済が地球規模で展開したことに最大の要因がある。グローバル経済と呼ばれる、この新しいシステムは、不可避的に一%と九十九%のすさまじい富の偏りと格差を生む。さらに九十九%のなかから、どうやっても浮かび上がれない、這い出せない人たちが生み出される。この現実がSNSなどによって世界の隅々でモニターされる。スマホ一つで自他を比較できてしまうわけだから、当然、おかしいじゃないか、ひどいじゃないか、ということになって、方々で軋轢や紛争が起こってくる。また近代以前の宗教理念を標榜する過激派組織を活気づかせ、世界中でテロが頻発するという事態になっている。
 以上が、『新しい鳥たち』という作品が踏まえている現状である。この現状のなかで、小説の主人公・キクは行き詰まっている。二進も三進もいかなくなっている。そこへヤシという一人の男がやって来る。神仏よりもさらに古い精神の古層から、禁止と侵犯によってあやなされていきた歴史の彼方から、邪悪なものに染まらぬ魂を宿してやって来る。ヤシのまなざしによぎられて、キクのなかで何かが少しずつ変わりはじめる。もう一人、フユという女性もやって来る。彼女もキクと同様に行き詰まっている。キクとフユはそれぞれ別の理由で行き詰まっているのだが、本当はつながっているのかもしれない。二人は一つの世界画像によって行き詰まっているのかもしれない。
 人と人はなぜ引き裂かれるのか。この引き裂かれた生のあり方を、「自由」や「平等」という言葉でごまかしてきたのが「近代」と呼ばれる時代ではなかったか。友愛によっても博愛によっても、人と人はつながらない。つながらないから、テロと空爆はつづいている。「私以外私じゃない」と割り切って、ポケモンでGOしたところで、私以外私じゃない私は、どこへも行くことはできない。
 『新しい鳥たち』の主要人物たちは、みんなどこかへ行こうとしている。新しい鳥たちの飛翔する空が必要だ。だが、どの空を飛べばいいだろう? 不吉な噂が囁かれている。昨日見たのが最後の空だった? いまや太陽は絶望によって、真っ黒に塗りつぶされているというのか。
 そうではない。そうではないことを確信しているから、私は小説を書きつづけている。誰の目にも、空は映っている。すでに新しい空は、私たちの頭上に広がっている。見上げるのを忘れているだけだ。手元のスマホばかり見ているから。心が虚ろなのだ、ジハードに身を捧げる者たちも、日本の孤独な若者たちも。彼らをともに私の小説に引き込みたい。